34 最高の精神、至高の善、超生命的かつ超神的な本性は1)、あらゆる意味で絶対に反対対立するものを受け容れないのであるから、明らかに善性を性質としてではなく、実体として持っている2)。それゆえ、善きものとして考えられるすべてのものは、かのおん方の内にある。いな、むしろかのおん方は、善きもの(のすべて)であり、なおかつ、その善きものを超えている。そしてかのおん方の内に考えられるものの一切は善きものである。いな、むしろそれは、善性であり善を超える善性である3)。さらに生命も、そのおん方の内にある。いな、むしろそのおん方こそ生命である。と言うのは、生命は善きものであり、生命はそのおん方の内にある善性だからである。また知恵も、そのおん方の内にある。いな、むしろそのおん方こそ知恵である。と言うのは、知恵は善きものであり、そのおん方の内にある善性だからである。また、永遠性も至福も、一口に言って善きものとして考えられるありとあらゆるすべてのものがそうである4)。そしてそこでは、生命や知恵、善性およびそれに類する数々のものとの間に違いは存在しない。なぜならば、かの善性はすべてのものを、包括的に単一にそしてこの上もなく単純に、包含しているからである5)。さらにその善性は、すべての善きものから考えられ、名指される。一なる真実、これこそ人が善性について考え語ることができる善きものなのである。しかしかの善性は、神の知恵に満たされた精神でもって考え、(聖)霊に動かれた舌でもって神について神学的に語る人たち自身のもとで真実に考えられた数々のものだけに尽きるのではない6)。それは、言語を絶しており把握できないものとして、まさしくそれらを超えており、単一で、超本質的な単純性に欠けることなく、絶対的に善いと同時にまた善を超えた、一なる善性なのである。実際、ただこのこととの関連においてのみ、(その善性は)考えられ名指されるのである。そして被造物の造り主であり主宰者は、この点で、被造物に向けられたご自身の数々のエネルゲイア(働き)からのみ考えられ名指される。なぜなら、そのおん方は、絶対的に善いと同時に善を超えた善性であり、その善性を実体として持っておられるからである。したがってそのおん方は、善性に対する反対対立性をあらゆる意味で絶対に受け容れない。なぜなら(そのおん方の)実体に反対対立するものは、何一つまったく存在しないからである。

 

次へ