37 神の像に即して造られた我々の精神も、この最高の愛の像を持っている。この愛は、精神に由来し精神の内に絶えず存在する認識を目指しており、この愛もまた精神から由来し、そして精神において存在し、(精神の)最内奥の言葉とともに、精神から発出するのである。そしておのれの最内奥にある数々の事柄を省察することができない者たちにとってさえも明白極まりない、この愛の証拠は、人間たちの飽くことを知らぬ知識欲である。しかしかの原型においては、かの絶対的に完全で飛び抜けた善性においては、その善性に由来することを度外視すれば、不完全なものは何もないから1)、神の愛は、善性のすべてと別ち難く一つに結ばれ、善性のすべてとなっている。それゆえこの愛は、聖なる息吹[聖霊]であると同時に、み言葉に随伴するものとして、別名、弁護者でもあり、また我々によってそう呼ばれているのである。こうして我々は、聖霊がその完全なる独自のヒュポスタシス[個別存在]において完全であり、いかなる点でも、そのおん方がおん父の実体に劣っておらず、おん子とおん父とに別ち難く一つに結ばれて、同一のおん方となられているのを知るのである。とはいえ聖霊は、そのヒュポスタシスの点で同一のおん方となっているのではない。なぜならこのヒュポスタシスは、このおん方が神に相応しい仕方でおん父から発出して由来することを我々に明示するものだからである。そして我々は、真実にして完全なる唯一の神を、真実にして完全なる三つのヒュポスタシスにおいて、崇拝すべきであて、三重の神を崇拝すべきではない。単純なる神を崇拝すべきなのである。と言うのは、善性は何らか三重のものでもないし、三つの善性でもないからである。むしろ最高の善性は、尊び伏し拝むべき聖なる三位一体である。この三位一体(の神)は、代々に先立って神に相応しい仕方で、ご自身からご自身へと流れることなく流れ出て 、それ自身にとどまり、(他のものによって)限定されず、ただそれ自身によってのみ限定され、すべてのものを限定し、すべてのものを超えて拡がるものであり、また存在者の何ものをもご自身から離れたままにはしておかない。

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