41 我々の魂よりも劣ったものの一つであり、他のものたちよりも一層、いな、はるかに劣ったものは、悪の開祖である可知的な蛇である。それはいまや、人間たちへの邪悪な唆しによって自分自身の邪悪さの使者となっている。この蛇は、傲慢にも創造主とその権能に関して等しくなろうと望んだ分だけ、他の何ものにも増して低められ劣ったものになった。すなわちそれは、みずから率先して創造主を見捨てた分だけ、正当にも創造主から見捨てられたのである。またこの蛇は、かの創造主に対立し対峙し、明らかに反逆したものとなるまでに、創造主を見捨ててしまった。したがってもしもかのおん方が、生ける善性であり生けるものに生命を与えるおん方であるとすれば、この蛇はそれとは正反対に、死せる悪性であり、死をもたらすものとなっている。事実、かのおん方は、善性を実体としてお持ちであり、その反対のもの、すなわち悪性を受け容れない本性を有しておられるのであるから、いかなる悪性であれ、悪性に与る者たちが、そのおん方に近づくことは、まさしにもってのほかである以上、なおのことどれだけ一層このおん方は、悪性の製作者であり創設者、また他のものたちの(悪性の)原因者であるこの蛇を、ご自分自身から遠くの極みに放逐することだろうか。とはいえ、この邪悪な蛇は、邪悪さではなく、生命を実体として持っているから、それゆえにそれは、その実体に関して可能的に不死である。したがってたしかにこの蛇は、悪性をも受け容れる実体を持っていながら、なお(当初は)その(生来の)自由意志のゆえに(創造主から)尊重されていたのである。それゆえもしもそれが、みずからの決断によって永遠に尽きることのない善性の源に服従し、それに依りすがっていたとすれば、その蛇は、本当の生命に与るものとなっていたことだろう。(ところが)この蛇は、みずから進んで悪性へと逃げ去り、本当の生命を剥脱され、みずから率先して走り去ったその本当の生命から正当にも放逐されて、死せる霊になってしまったのである。ただし実体においてではなく――と言うのは、死性の実体は存在しないからである――本当の生命の放棄において、である。そしてこの蛇は、悪性への衝動に飽きることなく、この上ない惨めさを自分自身に増し加え、自分自身を死をもたらす霊に仕立て上げて、自分の死の交わりの中に人間までも引き込もうと、熱心に励むようになっってしまったのである。

 

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