50 そういうわけで、(二人の)人祖たちにとっては、神を決して忘れないようにすることが、適切だったのである。しかも、あの聖なる場所に生活しているかぎりは、そうすべきだったのである。そしてなお一層彼らが訓練され、数々の単純でありながら本当によいものによっていわば養育されて、観想的な心構えのために完成されることが適切だったのである。しかしいまだ不完全で、(完成と未完成の)中間にあり、経験される(感覚的な)ものの力に比例して、善きものや悪しきものの方へとたやすく引き寄せられてしまう人たちにとって、(感覚的なものを)体験することは適切なことではない。また、精神全体をはなはだしく落としめる性向を生まれつき持ち、精神全体を数々の感覚とともに操り、それを感覚もろとも落としめてしまい、数々の邪悪な情念に(働きの)場を与えるこによって、それらの情念の開祖であり創設者を信頼に値する者として提示する者たちに対しても、上で述べられたことは当てはまる。これらの情念の元は、かの者に次いで、もっとも心地よい食物の情欲に焚き付けられた食事である。実際、もしもあの木をただたんに観たことだけが、(旧約の)歴史書のいう通り、蛇を受諾できるもの、信用に値する助言者として仕立て上げたとすれば、なおのこと味覚は、どれだけ一層、しかも後続する人々に対してさえも、大きな働きをしたであろうか。そしてもしも味覚がそうであれば、満腹するまでの食事は、どれほどであったろうか。一体全体、(二人の)人祖たちがまさしく感覚的にあの木から食べることは、いまだ有益なことではなかったというのは、明らかなことではないだろうか。果たして、然るべき時機にあの木から食べなかった彼らは、あの神的な場所を悪の助言室や作業場にしないように、神の楽園から追放されるべきではなかったのだろうか(Gn.3.23-24.)。果たせるかな、あのとき罪を犯した者たちは、ただちに身体の死をも招くべきではなかったのだろうか。しかし、(万物の)主宰者は忍耐強いおん方であられた。

 

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