45 しかし理性的な魂は、死するものとして存在するが、しかしそれでいてその存在において生命を持つものであることを、偉大なパウロは、我々に教えている。彼はこう書き記している。「自堕落な寡婦は、生きていても死んでいる(I Tm 5.6)」。目下の課題に関しても、すなわち理性的な魂に関しても、この言葉がパウロによって言われるとすれば、彼は、これ以上に悪いことをいえなかっただろう。実際、霊的な花婿を失った魂は、もしも謹慎して喪に服さなければ、そして、つましく控えめな悔悛の生活を送らず、放蕩を重ねて快楽に身を委ね、自堕落のままであれば、生きていても――何と言っても魂は、その実体に関して不死である――死んでいるのである。そのうえ理性的魂は、より善き生命を受け容れることができるのと同じように、一層悪しき死をも受け容れることができるのである。しかし、たとえパウロが物体的な花婿を失った寡婦のことを言っているとしても、自堕落になった寡婦は、身体に関しては生きていても、魂に関してはまったく死んでいると、彼は言っているのである。なぜなら彼は、また別の箇所でこうも言っているからである。すなわち、「数々の過失によって死んだ者であったわたしたちを、(神は)キリストとともに生かしてくださいました(Ep 2.5)」と。では、こう言っている(ヨハネは)どうであろうか。「死へと向かう罪があります。また死へと向かわない罪があります(I Jn 5.16-17)」。そればかりか主も、死んだ者たちに死んだ者たちを葬ることを任せるよう、ある人に命じて、かの葬儀人たちは、身体に関して生きているが、魂に関しては、まったく死んでいることを宣言されていたのである。

 

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