48 したがって、あるいは欲求によって――実際(神は)、我々が生きるように欲求しておられる。たしかに(神は)、このことを取り立ててお望みになっておられなければ、我々を生ける者としてお造りにはなられなかったであろう――、あるいはかのおん方が、我々以上に我々の利益をご存じであることを認識することによって――実際、我々に認識を賜わる諸々の認識の主が(1S 2.3)、どうして(我々とは)比べものにならないくらいよく(我々の利益をご存じ)ないであろうか――、あるいはそのおん方の全能の力を恐れることによって、(アダムとエバは)あのとき、欺かれず、誘惑されず、かのおん方の掟と定めとを拒まないようにすべきだったのだ。ちょうど今日でも、あの掟に次いで、我々に与えられた、救いをもたらす数々の掟と定めとを拒んではならないのと同じように。そして今日、高潔にも罪に逆らい立つことを選ばずに、神の諸々の掟を無に帰してしまう人たちが、自分自身の魂を悔悛によって回復しなかった場合には、反対の掟、すなわち内的かつ永劫の死へと向かう掟を受け入れることになるのと同じように、あの一組の人祖たちも、背くことを説得する者どもに抵抗せず、掟をなおざりにしてしまったので、正義をもって裁きを行なわれるおん方によって、あらかじめ彼らに宣言された判決が、ただちに実行に移され、木から食べた彼らは、その判決に従ってただちに死んだのである。そして彼らが忘れていた、彼らのための真理と愛と知恵と力の掟がいかなるものであったかを、彼らは現実に悟ったのであり、また、栄光を剥ぎ取られて裸になった彼らは、恥ずかしさのあまりみずからを隠したのであった(Gn 3.7-8)。この栄光は、まさしく不死の霊を際立った仕方で生かすものであり、その栄光がなければ、もろもろの霊の生命は、多くの死よりもはるかに劣ったものとなり、またそうなると信じられている。

 

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