49 (二人の)人祖たちが、あの木から食べることはいまだ有益なことでなかったことを、(ナジアンゾスのグレゴリオスは)こう言って示している。彼は言う。「たしかにその植物は、観想であった。わたくしの見解では、ただその心構えが一層完全な者たちだけが、その観想に安全に登攀することができるのである。その植物は、いまだに一層単純で、貪欲な心の持ち主たちには、よいものとはなっていない。それはちょうど、完全な食物が、いまだに脆弱で乳を必要としている者たちにとって、有益なものとなっていないのと同様である1)」。しかし、かの木とかの木からの食物とを上昇的に観想にまで移し変えようと望まない人がいたとしても、わたくしが思うに、あの食物が、いまだ不完全であったかの人たちにとって有益なものでなかったのを知ることは、それほど難しいことではない。実際、かの木は、楽園にある数々の木の中で、感覚的に眺め、そして食べるには、いちばん心地よいものであったようにわたくしには思われるのである。しかし感覚的にもっとも心地よい食物が、数々の本当にしかも完全によい物に属しているのではなく、常によい物に属しているのでもなければ、また、万人にとってよき物に属しているのでもない。むしろこの食物を、(それに)打ち負かされないように、そして必要なときに必要なかぎりで、しかもそれをお造りになられたおん方の栄光のために取り扱うことができる人たちによって、(その木は)よき物なのである。しかしそれをこのように取り扱うことができない人たちにとっては、それは善き物ではない。そういうわけで、わたくしは、あの木はまさに善悪を知る木だと呼ばれたと考えているのである。なぜなら、感覚的にもっとも心地よいものに交わって、なおかつ、神への観想と神への数々の賛美そして数々の祈りとから、自分の精神を引き離さないようにすることは、神的観想と徳との心構えの備わった完全な人たちのなすところだからである。そればかりか彼らは、それら(の心地よいもの)を神への延身のための材料および出発点とするのであり、数々のより優れたものへと向かう知性的な運動によって、最終的には感覚的な快楽を制御するに到る。とはいえその運動は、尋常ならざるもの、はなはだしく大きなものである。そしてその運動は、すなわち魂の悟性能力を、あの当時は悪しきものであったが、しかしあの木にすっかり囚われてしまい、あの木に打ち負かされた人にとっては、善き物に思われた、まさにあの木のために虚しくしないないようにするほど、尋常ならざるがゆえに、それだけ一層激烈きわまりないものなのである。

 

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