60 「神は霊である。そしてそのおん方を礼拝する人たちは、霊と真理とにおいて礼拝しなければならない(Jn 4.24)」、すなわち彼らは、非物体的なおん方を非物体的に考えるのである。というのも、彼らは、このようにしてこそ本当に、その霊と真理とにおいてあらゆる所におられるそのおん方を見ることになるからである。実際、神は霊であるから、非物体的なおん方である。しかるに非物体的なものは、場所の中にはないし、数々の場所的な境界によって限定されもしない。したがって、天と地のあらゆるところに存在する場所のどれか一つの定められた場所で、神は礼拝されるべきだという者は、本当のことを言ってはいないし、また本当に礼拝してもいない。たしかに神は、非物体的なおん方であるからどこにもおられない。しかし神は、神であるから、どこにでもおられるのである。事実、神の存在しない山や場所、あるいは被造物があるのであれば、神は、ある所に限定されて見出されることになろう。神は、あらゆる所におられる。なぜなら神は、限定されないおん方だからである。では、神は、どうやってあらゆる所におられるのであろうか。部分によって取り囲まれてでもなければ、全体によって取り囲まれてでもない。そんなことでは決してない。それでは神は、またしても物体になってしまうだろう。実のところ神は、一切を内包し一切を取り囲むおん方として、みずからそれ自身においてあらゆる所に存在し、また一切を超えておられるのであり、真の礼拝者たちによってご自身の霊と真理とにおいて礼拝されるのである(Jn 4.23)。

 

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