53 しかし神は、我々が人類愛の卓越さと知恵の深さとをまったくもって知らないことがないように、どういうわけか、死刑の執行を猶予され、人類が更に少なからざるあいだ生きることをお許しになられた。まず神は、あわれみをもって人類を教育なさりながら、いな、むしろ放任されながら、罰を伴った教育をお示しになり、我々がすっかり絶望しないようにされた。そして、悔い改めの機会と、神を喜ばせる新しい生活の機会とをお与えになった。また、次々と続く出生によって、死の悲しみを和らげられた。さらに、後継者たちを残すために、人類をお増やしになって、生まれてくる者たちの始まりが、死んで行く者たちの数の多さを大幅に上回るようにされた。そのうえ、感覚的な植物の美しさのせいで、あわれで貧しい者になった一人のアダムに代えて、幸いにも神認識と徳および知識と神の寵愛とに富んだ、多くの人々を感覚的なもの(たち)の中から明らかにされた。セト、エノシュ、エノク、ノア、メルキゼデク、アブラハムが、そのことの証人である。そして彼らの間で、また彼らの以前や以後に、彼らに倣って、あるいは彼らに近い者として現われた人たちが証人である。ところが、こんなにもたくさんいて、こんなにも偉大な人たちの中にも、まったく罪を犯さずに生活した者は、一人もいなかった。それゆえ彼らでさえも、人祖たちのあの大失態をつぐない、人類の根の傷を癒し、引き続く人たち全員のために聖化と祝福と生命の向上に十分なものとなることができなかった。そこで、かのおん方は、まさにこのことを予見されていて、然るべきときに数々の部族と民を選び出された。やがてここから、賛美の誉れ高き杖が生じ、花が咲くのである(Nb 17.23,Is 11.1)。神は、この花を通して、全人類に救いをもたらす経綸を成し遂げることになっていた。

 

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