55 たぶん多くの人たちは、どうしてそうやすやすと邪悪な助言者に説得されて、神の掟を拒否し、そのうえその拒否によって我々に死をもたらしたのかと言って、アダムを非難することだろう。しかし、体験する以前に、何かしら致命的な植物を味わおうとすることと、体験によってそれが致命的であることを学んだ後で、それを食べようと望むこととは、同等ではありえない。なぜなら、体験の後で毒を吸引し、惨めにも死を自分自身に引き寄せる人の方が、体験する以前にこのことを行なって(死を)受ける人よりも、一層多く非難されるべきだからである。それゆえ、我々一人一人の方が、あのアダムよりも、はるかに多く非難されるべきであるし、また、断罪されねばならないのである。だが、我々の中にも、あの木は、存在しないのだろうか。いまでも、あの木を味わうことを禁じる神の掟が、我々に対して存在しないのだろうか。(もちろん)あの木と同じ木が、我々の中に等しく存在するわけではない。しかし神の掟は、いまでも我々に臨んでいるのである。その掟は、それに従いそれに即して生活しようと望む者たちを、彼ら自身のすべての罪の刑罰および先祖の呪いと判決とから解放するものである。しかし、いまでもその掟を拒んで、その掟よりも邪悪な者の甘言と唆しの方を尊ぶ者たちは、あの生命と楽園での暮らしとから追放されて、恐ろしい永劫の火のゲヘナ(地獄)へと投げ込まれざるをえないのである。

 

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