62 ただこの点でのみ、すなわち、自分自身の中に(身体を)包含し生命を与える能力を持っているという点においてのみ、人間は、天使たちにまさって神の像に即して造られた、というわけではない。人間は、支配する点でも、天使たちにまさって神の像に即して造られているのである。事実、我々のもとにある魂の本性の中には、一方では主導し支配する能力が、また他方では本性的に仕え服従する能力が存在している。意思、欲求、感覚、一口に言えば、神によって精神の次に、精神とともに創造されたかぎりのものが存在している――たとえ我々が、罪を好む思いによって、全能者である神に対してばかりでなく、我々に生まれつき属している自律的な能力に対しても背くと場合があるとしても。それにもかかわらず、神は、我々の中にある支配する能力のゆえに、全地の支配権をお与え下さった(Gn 1.28)。しかし天使たちは、自分に軛づけられた身体を持ってはいないため、身体を精神の下に軛づけられたものとして持つことはない。彼らの中でも堕落した天使たちは、常に邪悪な知性的意思を有しており、他方、善い天使たちは、制御者を決して必要としない常に善い意思を有している。しかし邪悪な天使は、地上の権力を得たのではなく、ひったくったのである。これによって、邪悪な天使は、地を支配する者として創造されたのでないことが明らかとなる。他方、天使たちの中でも善い天使たちは、我々の堕落以後、この地位の低下のゆえに――もちろん人類愛のゆえに、この低下は徹底的なものではない――地上のできごとを監視するようにと、全能者によって命じられた。実際、モーセがその詩歌の中で言っているように、「神は諸国の民をお分けになられたとき」、天使たちの境界を「定められたのである(Ode 2.8;Dt 32.8)」。そしてこの分割は、あのカインとシェトの後で行なわれた。すなわち、カインから出た者たちは、人間たちと呼ばれ、シェトから引き出された者たちは、神の子らと呼ばれたのである。そのとき以来この(神の子らという)名称は、神のおん独り子がそこから肉体をお取りになることになっていた部族を分け出し、この部族を前もって告げ知らせていたように、わたくしには思われる。

 

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