66 我々の本性は、隋罪によってその神的な照明と輝きとを剥脱されていたので、神のみ言葉はその惨めさをあわれまれ、あわれみの腸ゆえに我々の本性をお取りになって、弟子たちの中から選ばれた者たちに、タボル山の上で(おん身に)まとわれた本性をもう一度、(しかもあのアダムの隋罪以前のときよりも)一層顕著にお示しになられたのであった(Mt 17.1-13,Mc 9.2-13,Lc 9.28-36)。そのおん方は、(それによって)一体我々がかつて何であったのか、そして、我々がここで力のかぎりを尽くしてそのおん方に従って生きることを選んだなら、来るべき代に我々は、彼を通して何になるのかをお示しになられたのである。これは、黄金の舌を持つヨハネも言っている通りである1)。

 

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