67 アダムも隋罪以前には、この神的な照明と輝きとに与っていた。彼は、本当に栄光の衣を身にまとっていたので、裸であることはなかったし、裸であるがゆえに不体裁でもなかった。それどころか彼は、今日たくさんの黄金と輝かしい宝石で飾られた頭帯をかぶっている人たちよりも、はるかに着飾っていた、と言っても過言ではない。偉大なパウロも、この神的な照明と恵みとを我々の天来の住まいと呼んでこう言っている。「わたしたちは、天からいただく我々の住みかを、ぜひとも身に着けたいと願いながら、この(地上の住みかの)中でため息をついています。もしもそれを身に着けたなら、わたしたちが裸で見出されることはないでしょう(2 Co 5.2-3)」と。パウロ自身も、イスラエルからダマスコへ行く途上で――神学という名称にあやかった異名を持つグレゴリオスに従っていえば――「数々の迫害から浄められる以前に、(パウロによって)迫害されているおん方と言葉を交わしたとき、いや、むしろ偉大な光の束の間の光輝と交わったとき1)」、この神的な照明とそれに見合う着衣との手付けを神からいただいたのである。

 

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