68 神の超実体性は、決して複数形では呼ばれない。ところが、神の神的な造られざる恵みとエネルゲイアとは、「太陽光線の比ゆに従っていえば1)」、分かたれずに分かたれる。太陽光線は、温め、照らし、生命を与え、増やし、照らされるものにそれ自身の輝きを送り込み、見るものたちの目に顕れるものである。ともかくも、この、いわばおぼろげな比ゆに従っていえば、神の神的なエネルゲイアもまた、数々の神学者たちによって一と呼ばれるだけでなく、多とも呼ばれているのである。それは、偉大なバシレイオスも言っている通りである。彼は言う。「霊の諸々のエネルゲイアとは何だろうか。偉大さゆえに言語を絶したもの。多さゆえに数え尽くせないもの。我々は、一体どうやって代々を超えたものを考えたらよいだろうか。この霊の諸エネルゲイアは、可知的な創造の以前には、一体何だったのだろうか2)」と。たしかに、可知的な創造の以前に、また代々を超えたところに――るほど代々も、可知的な被造物である――造られたものを語った者は、そもそも誰もいないし、考えた者もいない。そういうわけで、神の霊の諸々のデュナミスとエネルゲイアとは、造られざるものなのであり、また、それらが多くのものだと神学的に言われていることによって、霊の一つでありかつ絶対に不可分の実体から分かたれずに区別されるのである。

 

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