73 しかしアキンデュノスの思いなしを唱道して、あからさまに聖なる人たちに反対する者たちは、「造られざるものは一つ、すなわち神の本性であり、それと異なるものは何であれ、すべて造られたものである1)」と主張している。彼らはそれによって、おん父とおん子と聖なる霊とを被造物にしているのである。と言うのは、エネルゲイアは、唯一で同じエネルゲイアが、それらお三方に属しているからであり、また、そのエネルゲイアが造られたものであるとすれば、そのおん方が造られざるおん方であることはありえないからである。それゆえ、神のエネルゲイアが、被造物なのではなく――とんでもないことである――、むしろ(エネルゲイアによって)働かされ成し遂げられたものが、被造物なのである。そういうわけで、神聖なるダマスケノスは、神の本性とは異なるエネルゲイアが、まさに実体的な、すなわち本性的な動きであると教えたのである2)。そのうえ、作ることは神のエネルゲイアに属していると、神的なキュリロスは言っていたのであるから3)、どうしてそのエネルゲイアが作られたものであろうか。そうであれば、それは他のエネルゲイアによって働かされたものとなり、さらにこのエネルゲイアも、また別のエネルゲイアによって、というふうにして、次々と無限に進むことになろう。そしてエネルゲイアの非被造性が永遠に探求され、呼び求められることになろう。

 

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