78 一切の本性は、神の本性からはなはだしく遠く隔たっており、完全にそれと無縁である。実際、神が本性であるとすれば、その他のものは本性ではない。また、もしもその他のものの各々が本性であるとすれば、かのおん者は本性ではない。そして、もしも数々の他のものが存在するものであるとすれば、神は存在するものではない。逆に、神が存在するおん方であるとすれば、他のものは存在するものではない。あなたがこのことを、知恵についても善性についても、一口に言って、神に関わるすべてのことについて、あるいは神に関して言われるすべてのことについて受け入れるなら、あなたは正しくかつ、聖なる人たちと一致して、神を語ることになるだろう。他方、神は、存在するすべてのものの本性であり、またそうだと言われている。と言うのは、すべてのものは神に与り、そのおん方の分有によって成り立っているからである。ただしそれは、そのおん方の本性に与ってではない――とんでもない話だ――そのおん方のエネルゲイアに与って、である。たしかにこのような意味で、神は、諸々の存在者の存在性であり、また、形相の主宰者として諸々の形相の中の形相でもあり、さらに、知恵ある者たちの知恵なのである。一口に言えば、神は、すべてのもののすべてなのである。そのうえ神は、存在するおん方ではない。なぜなら、神は、存在するすべてのものを超えておられるからである。また、神は、形相でもなければ、形相をお持ちでもいない。なぜなら、神は、形相を超えておられるからである。では、我々は一体どうやって、神に近づいたらよいのだろうか。果たして我々は、本性において神に近づくのであろうか。しかし全被造物の内の一つたりとも、至高の本性との交流やそれへの接近をまったく持たないし、(これからも)持つことはないだろう。したがって、もしもある人が神に近づいたとすれば、彼は疑いもなく、エネルゲイアにおいて神に近づいたのである。では、一体どうやって。本性的にあのエネルゲイアに与っていることによってか。しかしこのことは、すべての被造物に共通している。してみると、本性によって(神に)帰属している数々のものの中にではなく、選択的意志によって神に帰属する者たちの中に、神に近づいたり、神から遠ざかったりする者がいることになる。しかるに、選択的意志は、ただ理性的なものたちにだけ属している。したがって、他のすべてのものの中でも、だたそれらだけが、徳や悪徳によって、神から遠くなったり、神に近くなったりするのであり、近づいたり遠く離れたりするのである。そういうわけで、ただそれらだけが、さらに惨めさや至福をも受け容れうるのである。だが、我々は、至福を手に入れることに励もう。

 

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