81 プラトンの学校の正門には、「幾何学を知らない者は何人も入るべからず1)」と刻印されているそうである。ところで、数々の分かたれざるものを分かたれたものとして考え、そしてそれらについて議論のできない者は、まったく幾何学を知らない人であろう。なぜなら限界が、限界づけられたものを伴わずに存在することは、何としても不可能だからである。そして幾何学の場合、ほとんどすべての論証は、諸々の限界に関わっている。もちろんそれらの限界は、時に数々の限界づけられたものを伴わない場合がある。しかしその場合には、それらの諸限界は、限界それ自体として限界づけられ、そして提示されているのである。なぜなら精神は、数々の分かたれざるものを分けるものだからである。また、物体を取り巻く数々のものから、精神によって物体を分けることをこれまで学んだことのない人は、どうして本性それ自体について理解するだろうか。その本性は、それが内在している数々の本性的なものから分かたれざるものであるばかりでなく、それらなしでは決して存在しえないのである。そういう人はどうやって、数々の普遍的なものを普遍として理解するだろうか。それらの普遍的なものは、数々の特殊なものの中に存在し、ただ精神と理性とによってのみ後者から区別されるものあり、多くのものなしでは決して存在しないが、真の理性によって多くのものに先立つものとして理解されるものなのである。また、彼はどうやって、数々の可知的対象と知性的存在者とについて理解するだろうか。彼はどうして、精神の各々が複数の悟性を持ち、また、複数の悟性の各々が我々の精神になっている、と我々がいうのを聞いて理解するだろうか。彼は、まさに嘲笑し、叫び出しながら、我々を非難するのではないだろうか――人間の各々は、二つないしは多くの精神を持っていると、我々が言っているとして。しかし、このような場合、数々の分割されざるものを分割されたものとして聞いたり、話したりすることのできない者が、どうして神の場合に、何かそういった類ことを話したり教えを受けたりすることができるだろうか。神学者たちによると、たしかし神には、多くの統一と区別とが存在し、またそう言われているのである。しかし、「諸々の統一は、諸々の区別に勝り、そして先行しているのであり2)」、それらを排除するものでもなければ、それらによって妨げられることも決してない。とにかく、アキンデュノス派の人々は、神における区別されざる区別と区別されたる統一とを受け入れることもなく、また知ることもできないのである――彼らは、我々が聖なる人たちと声を合わせて、次のように言っているのを聞いているというのに。すなわち、神のある面は捉えられざるものであるが、ある面は捉えられる。つまり神は唯一であり、その同じおん方が、実体においては捉えられざるおん方となっている。と同時に、そのおん方の数々の神的なエネルゲイアにおいては、すなわち、我々をめぐるそのおん方のご意思、我々に関するそのおん方の代に先立つみ摂理、我々に関わるそのおん方の代に先立つおん知恵、そして神的なマクシモスに従っていえば、「そのおん方の無限の力と知恵と善性3)」においては、そのおん方は、数々の造られたものから捉えられるおん方である、と。バルラアムとアキンデュノス、および彼らのあとに従って同じ足跡を踏む者たちは、それらの事柄が必然必須な事柄であると我々がいうのを聞くと、我々が多くの神々と多くの造られざるものとを語っており、神を複合物にしていると言って非難する。たしかに彼らは、神が区別されずに区別され、区別されながら結び合わされているのであり、しかもそれだからと言って神が多数化をこうむることもなければ、複合化をこうむることもない、というのを知らないのである。

 

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