90 いやまここで、神的なマクシモスにも、我々と声をそろえて語ってもらうことにしよう。神のそれらの数々の発出は、諸存在者を造り出す摂理である、と。彼は、スコリア(評註)の中で次のように書いている。「しかし、それらの創造する数々の摂理と諸々の善性とは」、すなわち「数々の実在付与、数々の生命付与、数々の知恵付与は、三つのヒュポスタシスを有する一者に共通する1)」。したがって彼は、それらの発出が多くのものであり、区別されていると主張することによって、それらが神の実体ではないことを示したのである。なぜなら、神の実体は一つであり、絶対に分けられないからである。また彼は、それらが、三つのヒュポスタシスを有する一者に共通しているとも言ったのであるから、それらの発出が、おん子と聖霊でないことをも、我々に明らかにしている。と言うのは、これらのヒュポスタシス[位格]のどれ一つとして、三者に共通するエネルゲイアではないからである。さらに彼は、それらの発出が数々の摂理であり数々の善性であると主張したばかりでなく、それらが創造するものであると主張したことによって、それらがそもそも造らされずものであることを示している。実際、もしもそうでないとすれば、創造するものは、別の創造するものによって創造されたことになるだろう。そして、この別のものも、さらに別のものによって創造されたことになろう。こうしてそれを不合理の極みにまで推し進めれば、「それは、無限に進んで、止まることがないであろう2)」。してみると、神の数々の発出と諸エネルゲイアとは、造られざるものである。また、実体のごときものがそれに帰属することもないし、ヒュポスタシスがそれに帰属することもない。

 

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