82 偉大なパウロ、キリストの口、選びの器(Ac 9.15)、神の名のもっとも顕著な運び手は、「神の永遠の力と神性のような、神の数々の見えざる事柄は、宇宙創造のときから、数々の造られたものにおいて知覚され、明らかに見られるのです(Rm 1.20)」と言っている。それでは、神の実体は、果たして、数々の造られたものにおいて知覚され、明らかに見られるのだろうか。断じてそうではない。そんなことは、バルラアムとアキンデュノスの狂気、彼らに先立ってはエウノミオスの錯乱に属している。なぜなら、エウノミオスも彼らに先立って、彼らと同じ流儀で、数々の造られたものからは、まさしく神の実体の他には何ものも知覚されないと書いているからである。しかし神的な使徒は、そのようなことを教えない。実際彼は、「神の知られうる事柄は顕らかです(Rm.1.19)」とあらかじめ教えた上で、そして、彼が理解力のある人たち全員に顕らかにしたこの神の知られうる事柄を超えて、何か他のものが存在していることを示した上で、次にこう付け加えたのである。「神の数々の見えざる事柄は、宇宙創造のときから、数々の造られたものにおいて知覚され、顕らかに見られるのです(Rm.1.20)」と。こうしてあなたは、神の知られうる事柄が何であるかを学ぶことができるでしょう。神を戴く教父たちは、解説しながら次のように言っている。「神のある面は、すなわち神の実体は、知られえない。しかしまたある面、つまり実体をめぐるすべてのもの、すなわち善性、知恵、力、神性や偉大さは知られうる1)」と。パウロはそれらのものを、数々の造られたものにおいて知覚されるものだが、また見えざるものとも言っている。しかし神の実体をめぐって数々の被造物から知覚されるこれらのものが、これまたどうして被造物となるのだろうか。したがって、数々の被造物から知覚される神のエネルゲイアは、まさに造られざるものであって、しかも実体ではない。なぜなら、そのエネルゲイアは単数形で提示されているばかりでなく、複数形でも提示されているからである。

 

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