84 果たせるかな、彼の弟であり弟らしく省察した人は、(エウノミオスへの)反駁の中でみごとに言っている。すなわち、「創造における数々の驚嘆すべき事柄の美しさと偉大さとに瞠目し、それらおよびそれらに類することから神的な事柄に関するその他の観念を抱きながら、我々は、我々の内部に生じた諸観念の各々を、数々の固有の名称で解釈する。「実に、諸々の被造物の偉大さと美しさとから、その作り手が類比的に観想されるのである」。そして我々は、その造り主を創造主と名づけるのである。また、そのおん方の力は、ご意思を実在に変えるのに足るものなので、我々は、そのおん方を力あるおん方と名づけている。さらに、公平無私な裁き手であるので、正しいおん方とも名づけている。しかし、我々は、神という言葉が(万物を)監督するエネルゲイアから獲得されたものであると了解している。したがって、まさしくそれゆえに、我々は、神の本性の何かしら部分的なエネルゲイアを教えられたのであって、その(神という)言葉によって実体そのものを把握したのではないのである1)」。

 

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