85 神聖な使徒たちと並んで神学においてもっとも秀でた人、ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースは、神の諸ヒュポスタシスにおける区別を明らかにしたあとで、こう言っている。「他方、もしも、善性に相応しい発出が、神的な区別であるなら、と言うのは、神的な統一はそれ自身を善性において超越的に統一しつつ複数化し多数化するからである1)」。少しあとで、「我々は、神的統治の善性に相応しい数々の発出が、神的な区別であると主張する。実際、神的統治は、数々のまったき善への諸々の参与を、存在するすべてのものに賜物として与え、統一されつつ区別され、単数的に複数化され、一者から分かれることなく多数化されるのである2)」。また、少しあとで、「我々は、まったき神性のこれらの共通し統一された諸々の区別を、あるいは善性に相応しい諸々の発出を、力のかぎりを尽くして賛美することにしよう3)」と。彼は明らかに、神の側には、個別存在[位格]的な区別ばかりでなく、また(それとは)異なる区別もあることを示しているのである。そして彼は、この個別存在的な区別とは異なる区別を神性の区別とも呼んでいる。と言うのは、諸ヒュポスタシスにおける区別は、神性の区別ではないからである。そして彼は、神が、数々の神的な発出とエネルゲイアとにおいて複数化され多数化されるといい、そのうえここでは、同じ発出が数々の発出となっているという。前出の箇所では、神的なものは多数化されていなかった。多数化されるわけがない。また、神であるかぎり区別されるべくもない。なぜなら神は、我々にとって三位一体の神であって、三柱の神ではないからである。さらに彼は、それらの数々の発出とエネルゲイアとの神性を明示している。たしかに彼は、それらを神的なものと呼んでおり、また、それらがまったき神性の諸々の区別であると主張しているのである。彼はまた、神的統治それ自身が――外から何かを増し加えることなく、当然のことだ――これらの数々の神的な発出とエネルゲイアとにおいてみずからを複数化し多数化するのだという。そればかりか、それらの数々の発出を賛美するように促し、しかも「力のかぎりを尽くして」という言葉をいい添えて、数々の神的な賛美歌唱者たちの中でもっとも秀でたこの人物は、それらの発出が賛美を超えたものであることも示しているのである。

 

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