86 同じ、神の顕示者は、上で、善性に相応しい発出が神的な区別であると言ったあとで、「捉えがたい数々の分与は、神的区別に即して統一されている1)」と述べている。彼は、いかにもここで、神の諸々の発出とエネルゲイアのすべてをひとからげにして、数々の分与と呼んでいるのである。さらに彼は、それらが捉えがたいものであると付け加えることによって、それらが数々の成し遂げられた結果――たとえば、数々の存在者の各々の実体とか、数々の生き物における可感的な生命とか、理性的で知性的な者たちの内に内在する理性と精神――であると思い込む人がいないようにしているのである。実際、それらの分与が造られたものであれば、どうしてそれらは、神の内にあって捉えがたいものでありえようか。また、ちょうど我々が光の場合に見るように、捉えがたい分与が、分与するおん方の内に本性的に内在するのであれば、どうして神の捉えがたい数々の発出と分与とが被造物となりえようか。

 

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