87 この偉大な人物はさらに先へ進んで、神のそれらの数々の発出とエネルゲイアとを、神に相応しい数々の名前で歌いあげて、それらを数々の分有とか、数々の分有それ自体とか呼んでいる。そして彼は、その論考の多くの箇所で、それらが諸々の存在を超えていること、およびそれらが神の内に超実体的な統一に即してあらかじめ実在していて、諸存在者の数々の範型となっていることを示している。続けて彼は、それらの諸範型が何であるかを教えて、こう付け加えている。「また我々は、神の内にあって、諸存在者の実体を造り出し、統一的にあらかじめ実在する諸理拠が、数々の範型であると主張する。それらの理拠を神学は、数々の予定とか、諸存在者を限定し造り出す諸々の神的な善き意思とか呼んでいる。そして、実体を超えるおん方は、それらの諸理拠に従って、諸々の存在者のすべてをあらかじめ限定され、そしてもたらされたのである1)」。そうであれば、どうして数々の予定と、諸々の存在者を造り出す数々の神的なご意思とが、造られたものであろうか。また、これらの数々の発出とエネルゲイアを造られたものだと見做す人たちが、神のみ摂理を被造物に引きずり下ろしているのは、どうして一目瞭然でないのだろうか。たしかに、実体を造り、生命を造り、知恵を造るエネルゲイア、一口に言えば、諸々の被造的存在者を造りそして維持するエネルゲイアは、数々の神的な意思であり、また、すべてのものの原因たる善性の数々の神的な分有そのもの、数々の神的な賜物そのものなのである。

 

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