88 したがって存在それ自体の分有は、決して何ものにも与らない。それは、偉大なディオニュシオスも言っている通りである1)。また、その他の数々の分有も、それらが諸存在者の数々の分有であり、数々の元であるかりぎ、絶対に何ものにも与らない。と言うのは、摂理が摂理を分け持つこともなければ、生命が生命を分け持つこともないからである。しかし、それらの分有が存在を有しているかぎりで、それらは、存在それ自体を分有していると言われる。と言うのは、存在それ自体がなければ、それらの分有は存在しないし、(他の諸存在によって)分有もされないからである。それは、認識のない予知の場合とまったく同じである。したがってそれらの分有は、分有それ自体としてあるのであって、造られたものでは決してない。そうであれば、また神的なマクシモスに従えば、それらの分有は、存在し始めたのでも決してない。それらは、神をめっぐって(その)実体に即して観想されるものなのである。そしてそれらの分有が存在しなかったときは、なかったのである2)。ところが、バルラアム主義者たちは、生命そのものと善性そのもの、およびそれらに類する数々のものが、諸存在者という共通の名称を分有しているので、不敬にもそれらが造られたものだと思い込んでいる。彼らは、それらが諸存在者と言われるにもかかわらず、それでいてしかも諸存在者を超えていることに気づいていない。偉大なデュオニュシオスがみずから言っている通りである3)。またそれゆえに、諸々の分有それ自体を被造物と同列に置く者たちは、軽率にも、聖霊までもが造られたものだと考えていることになるだろう。偉大なバシレイオスが、聖霊は、神に相応しい数々の名前を分有していると言っているにもかかわらず、である4)。

 

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