91 また、万物の産出者であり装飾者は、その善性の比類なく大きな卓越性によって、一切のものを多種多様なものとして実在させた。つまり(創造主は)あるものは存在することを望まれただけでなく、あるものは存在することに加えて生命をも獲得するようにされ、あるものは知性的な生命を所持し、あるものはただ感覚に即した生命だけを享受するように望まれたのである。また中には、それらの両者から合成された生命を獲たものものもある。そして、(それらの複合的な生命を持つものたちが)そのおん方から理性的で知性的な生命を受け取ったとき、(創造主は)彼らが、そのおん方への自発的な傾斜によって、そのおん方との一致を達成し、そのようにして神的かつ超自然的に生活し、そのおん方の神化する恵みとエネルゲイアとに相応しい者となるように望まれたのである。たしかに、そのおん方のご意思は、存在する数々のものの創造であった――それらのものが無からもたらされたものであれ、より一層善きものへと改善されるものであれ、しかもこの点で様々に違った仕方で。諸存在者に対するこの神のご意思の相違のゆえに、あの一つの摂理と善性とは、言い換えれば、数々のより劣ったもへと向かう、善性ゆえの神の転回は、多くの摂理と善性になっており、また神の知恵に満たされた神学者たちによっても、そう言われているのである。なぜなら、(それらの数々の摂理と善性とは)数々の可分的なものの中で分かたれることなく分かたれ、多様化されているからである。こうして、ある時には、神の予知のデュナミスの名が上げられ、またある時には、創造し維持するデュナミスの名が上げられることとなった。さらに、偉大なディオニュシオスによると1)、数々の実在付与や数々の生命付与、また数々の知恵付与も、それら(の摂理や善性の内)に含まれているのである。そしてそれらの各々は、おん父とおん子と聖霊とに共通している。また、おん父とおん子と聖霊とは、我々のための各々の善き神的なご意思それ自体に関するかぎりで、実在を与え生命を与え知恵を与えるエネルゲイアおよびデュナミスとなっているのである。さらにデュオニュシオスは、これらのエネルゲイアやデュナミスを、捉えがたく減退することのない数々の分与とも呼ぶことによって、造られたすべてのものから引き離すと同時に、それらが、分与するおん方に本性的に内在することを教えているのである。

 

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