第4章 生け贄

 

1 人身御供

人々はなぜ、神に生け贄を捧げるのか。自分の財産や大切なものを、またときには自分自身までを、どうして犠牲にするか。フランスの哲学者H.ベルクソンは、「生け贄とは神の恩寵(=恩恵・恵み)を得るため、あるいは神の怒りを招かないために奉納されるものである」としている。人はだれでも過去の過ちを清算し幸せな未来を生きたいと願っている。この願望が、万物の運行を司ると信じられているもの(精霊・神などの人格的存在)に、自分にとって大切なものを供え物・生け贄として捧げるという行為に具体化する。生け贄は、人間に不幸をもたらす神の怒りをなだめると信じられた。

しかし生け贄は、必ずしも自分にとって大切なものとは限らない。たとえばもまた生け贄とされる。中央アメリカのアステカ族では、戦争で捕えた何千人もの敵兵から心臓を取り出、神に捧げていたアステカ族は、流れ出る敵兵の血が、太陽に活力を与え、毎朝新たな力となって地上を照らすと信じられた

しかし、敵を生け贄にするという考え方は、宗教的な思想からは遠く隔たっているように思われるそれはむしろ、復讐というあまりにも人間的な感情に基づいて行なわれていたのではないだろうかおそらく敵(捕虜)神への生け贄としてささげる行為の背後には、筆者の憶測に過ぎないが

1. 捕虜を見世物(見せしめ)として殺害、国家ないしは支配者の威信を示すこと

2. 捕虜たちに食料を与える余裕がなかったこと(与える必要はないこと)

3. 捕虜を生かすことは、内部に敵(反乱分子)を抱えることになるという懸念

などというあまりにも人間的な欲求があったのではないだろうか

人身御供の事例は日本にも見出される。それは、今日でも、人柱伝説として各地に伝えられているたとえば豊臣秀吉が滋賀県の今浜に建てた長浜城では、一人の女性が人柱として埋められたと伝えられている人柱とは、城・橋・堤防などの困難な工事にあたって、神の心を和らげるために、生け贄として生きた人を水底、または地中に埋めること風習である。

なお、東アシアでは、自己犠牲を伴う人身御供の儀礼が広く存在していた。たとえばかつての日本では、不名誉を避けるためにみずから死を選ぶ切腹という儀礼があった。しかしこれは神のための自己犠牲問よりは、武士としての体面を保つための自己犠牲であって、厳密な意味での宗教的儀礼であるとは言えないだろう。またインドには、夫に先立たれた妻が、夫の遺体とともに生きたまま火葬されるサティーという風習があった(ヒンズー教)。これは自分の命を犠牲にすることによって、どこまでも夫に忠実であることを示し、夫と自分の霊魂を救済することが目的だったと考えられている。さらにインドのジャイナ教では、断食をつづけて死にいたる断食死という風習がある。断食死によって命を犠牲にした者は、究極の救いを得ることができるとされているのである。しかしこれらの風習も、武士の切腹と同じように、神のための犠牲的行為とは言えないと思われる。

敵の生け贄の対極にあるのが、罪を知らない幼い子どもの生け贄であるインカ族では心身ともに申し分なく健全であるという理由で、10歳の子どもが生け贄として選ばれていた。しかし子どもの生け贄について、どう解釈するかは難しい。宗教的な理由を口実にして、社会の重荷である孤児を厄介払いすることが目的だったのか。それとも家族にとって財産ともいえる大切な子どもを神に捧げて、一族の霊魂の救済を願うことが目的だったのか。子どもを生け贄にする理由はおそらく、そのどちらでもあったろう。

2 身代わりの羊

人間は生け贄として子どもを捧げるよりも動物を捧げる方が難しいと思うだろうか。現代ではこのような問いかけ自体、ナンセンスに感じられるかもしれない。しかし20世紀初頭まで、ヨーロッパも含む多くの貧しい農村では、娘の死より雌牛の死を深く悲しむ場合が多かったとされる。なぜなら雌牛は一家の貴重な収入源だが、娘は養わなければならない上に、結婚するときには持参金を持たせる必要もある金食い虫だったからである。要するに、養育に費用と時間の掛かる人間の子どもよりも、一家の収入源になる家畜の方が貴重であった。

そのようなことを考えると、動物が人間の代わりに生け贄として捧げられるようになった本当の理由を知ることは難しい。またその経緯も長く複雑で、決定的な答えは出ていないが、私見では、人間よりも動物の方が貴重であると見なされたため、神に喜ばれる生け贄として動物が選ばれたと考えられる。この問題を考えるときに思い出されるのが、旧約聖書(ユダヤ教とキリスト教の聖典)に記されたアブラハムのエピソードである。

聖書によれば、イスラエル人の始祖であるアブラハムは、神の言葉に従って、ひとり息子のイサクを生け贄として捧げようとした。しかし、最後に神が雄羊を出現させて、それをイサクの代わりに殺すよう告げた。そしてそれ以降、神の怒りを鎮め人間の罪を償うために、人間の代わりに雄羊が生け贄とされるようになったとされる。

この出来事は、ユダヤ教の贖罪の日や、イスラムの犠牲祭で、現在も祝福されている。ギリシア神話の中にも、このエピソードに似た話がある

3 生け贄を捧げる祭司たち

生け贄が動物の場合でも人間の場合でも、それを捧げる者は、食欲や性欲の面で犠牲を強いられる。生け贄を捧げる祭司は、儀礼の前に断食を行ない、禁欲生活をしなければならない。神は肉体を苦しめ精神を清めた者からのみ、生け贄を受け取ると考えられているため、儀礼を執り行う祭司は、肉体の欲望に打ち勝って清められた存在であることを要求される。祭司は生け贄の儀礼の前に、たとえばアステカ族では40日、マヤ族では60日以上も断食をしなくてはならなかった。そのため祭司は、様々な世俗の職業とはまったく違う存在と見なされるようになった。

しかしながら、あらゆる宗教に生け贄を捧げる祭司がいるわけではない生け贄の儀礼がない宗教には、それを司る祭司も必要ない

東アジアではヒンドゥー教神道道教儒教が生け贄の伝統を持ち続けている。一方、仏教ジャイナ教では生け贄は行なわれず、代わりに祈りと瞑想が重視されている。

西アジアでも事情は同じである。イスラムでは生け贄が行なわれたことは一度もなく(「犠牲祭」は単なる祝祭であり、実際に生け贄を捧げるわけではない)

しかし、ユダヤ教では紀元70年にエルサレム神殿が破壊されてからは、生け贄が捧げられることはなくなった。これはしかし、エルサレムに祭壇が再建されれば、生け贄が再開されることを意味している。プロテスタントにおいてはキリストが十字架の上で死んだ事実だけを生け贄と考えるため、それ以外の生け贄は存在しない。それどころか様々な宗教においてあまりにも犠牲の儀式が多いのは、アニミズムの呪術がいまだに大きな影響を与えているからだと見なしている。しかしそれでも、プロテスタントがキリストの十字架上の死を生け贄と認めているのは明らかである。

カトリック教会とギリシア正致会(東方正教会)では、毎日の重要な儀礼であるミサにおいて生け贄の行為が繰り返されている。この儀礼は、「神に捧げられた子羊」であるイエス・キリストの十字架上での死を再現するものと信じられている。このことは、今日でもアニミズムの習慣がキリスト教という新しい宗教の中で保持されているといえよう。