ですから、身体が復活すると私が言う場合、私は使徒に従って言うのであり――実際、彼も(身体という)その言葉を使った[1]――、私が肉という場合も、教経に従って告白しています。実際、人間の身体を肉と異なる考えることは、中傷の愚かしい産物です。したがって、復活するのは、共通の信仰に従って肉であると言われようが、使徒に従って身体であると言われようが、使徒が明確にした通りに、復活するものは、力の内に、栄光の内に復活するのであり、不滅の霊的な身体が復活するということが、信じられねばなりません[2]



[1] Cf.1Co.15,44.

[2] Cf.1Co.15,42-44.

 

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