102 オリゲネス[1]:御父が望んむことが自存するには、御父の意思で十分であるにちがいないと、私は思う。実際、御父は、意思の決定によって提出される道以外の道を使用しない。

したがって、同じように彼から御子の自存も生じる。そのことは第一に、御父なる神だけを除いて、産まれざるもの、すなわち生まれざるものは何もないことを告白する人阿知によって受け入れられる必要がある。実に、ある諸々の発出を身勝手に描く人たち――彼らはそれによって、神的な本性を諸々の部分に切り裂き、御父なる神を可能な限り分割する――の馬鹿げた諸々の作り話の中に人が駆け込まないように注意しなければならない。しかしながら、非物体的な本性についてそのことが僅かでも憶測されることは、極端な不敬虔に属するばかりでなく、究極的な愚かさに属している。また、自物体的で自存的な本性の分割が考えられ得ると言うことは、知性にとって全く一貫性に欠けることである。

したがって、意思が精神から発出しても、精神のある部分を切断したり、それから分離されたり分割されたりしないように、そのような仕方で、御父はご自分の像として御子を生んだが[2]、ご自身が本性によって不可視であるように、(その)増も不可視なものとして生んだと考えられねばならない。実に御子はみ言葉である[3]。そしてしたがって、彼の中に如何なる感覚的なものも理解されるべきでない。彼は知恵である[4]。そして、知恵の中に如何なる物体的なものも憶測されるべきでない。「彼は真の光――この世界の中に来る一切の人間を照らす真の光――である[5]」。しかし、この太陽の光と共通するものを何も持たない。



[1] Cf.De Princ.,I,2,6,165-188.

[2] Cf.Col.1,15.

[3] Cf.Jn.1,1.

[4] Cf.1Co.1,24.30.

[5] Jn.1,9.

 

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