113 オリゲネス:上で我々が言った諸々の事柄に、次のことが付け加えられなければならない:キリストがダビデの子であり、アブラハムの子であることに即して、彼の身体は、地上的な実体と異なるものではない――マタイが、「イエス・キリスト、ダビデの子、アブラハムの子の系図の書[1]」と書いているように;そしてパウロが、キリストは、アブラハムの種から出たのであり[2]、肉によればダビデの種から出たと言っているように[3]

したがって、「断食の諸々の四十日と四十夜が過ぎた後、彼は空腹になった[4]」言われていることは、疑いもなく、彼の身体も、我々の諸々の身体が常にそうであるように、空腹になりかつ満たされ得るということを示している。しかしもしも人が我々に対して、断食の諸々の四十日に関するこの奇跡の説明に反対するとしても、それは容易に解決され得る。なぜなら、モーセとエリアのあの模範――彼らも同様に断食を成し遂げたと報告されている[5]――も援用されるからである。

そればかりか、彼が旅路の労苦と暑さとによって疲れ、井戸の上に座って休み、喉の渇きを覚えたことも[6]、諸々の筋肉の疲労と、太陽の過大な熱によって取られた身体的な水分の要素以外の何を示しているだろうか。他方、より優れた諸々の事柄に従事しているため、飲むことを望んだことを彼が延期し、飲まないこからといって、彼が渇きを苦むこともなかったと言われるべきではない。

そればかりか、しばしば彼が諸々の食事を通して招かれ[7]、そしてすべての人たちの目視の中で食べ飲むことを、見ている人たちの諸々の目を欺いたり騙したりせずに行っている。また彼は、ある人たちが考えているように思考的にそれらのことを行っているのではない――取り分け彼が次のことを行っているときに:ある人たちによって、いわば行き過ぎた憶測に応じて、彼がより意欲的に食べ物と飲み物を食慾しているとして非難されるほと、彼が食べ物と飲み物のを摂取するとき。しかし、(キリストが)見かけを通して食べていたのであり、どのようにしてそのことが彼に起こったかを彼らは知らなかったが故に、それらのことが言われたと、もしもある人が強硬に主張したいなら、それらのことに対して、主ご自身が言ったこと諸々の言葉から応えなければならない:「洗礼者ヨハネが来たが、彼は食べもせず、飲みもしなかった。そして彼らは、『彼は悪霊を持っている』と言う。人間の子が来て、食べたり飲んだりした。そして彼らは、『見よ、大食漢で葡萄酒を飲む人間を』[8]」と。実に救い主ご自身が、「人間の子が来て、食べたり飲んだりした[9]」と言っているのであるから、どうして人は、彼が食べ物せず飲みもしなかったと大胆に言うのか。それらのことは、彼の教えの明白な不信である。しかし、もしも彼が食べそして飲んでいたなら、そして、葡萄酒と食物との実体が彼の肉になっていたのなら、疑いもなく(その実体は)、彼の身体のすべての諸々の節と諸々の四肢の諸々の繋ぎ目を通して拡散されていた。なぜなら霊的な本性は――ある人たちが彼の身体について感知しているように、もちろんそのことを彼らは十分にぎこちなく馬鹿げた行っているが――葡萄酒と食物との実体を受け取ることは不可能だからである。しかし、もしも人がそれらの事柄に対して不相応で忌まわしい諸々の詮索を提出し、諸々の章かも(彼の)身体の中で行われているかどうか探求しても、「身体的な本性の帰結に即して」(そのことを)認めるのはまったく馬鹿げたことでなないように見える。他方、更に諸々の範例によってそれらのことが我々によって主張されることを彼らが強要するなら、彼らは十分に愚かにそれらのことを詮索していることが明示されねばならない:実際、一体どこでそれらのことが、使徒たちについて、あるいは他の聖なる人たちについて、あるいは不敬虔な者たちと罪人たちとについてさえも、報告されているのか、と

そればかりか、彼の割礼の理拠も、我々に苦悩を生まない。なぜなら我々は、次のことを言うからである:彼は首尾一貫して人間的な身体において割礼され、彼の包皮がおそらく(定められた)時まで土地に委ねられたことを。しかしもしもそれが別様であれば、それは別の議論の中で探求されるだろう。しかしながら、彼のその割礼は、異なる見地から来る人たちを十分に窮地に立たせるだろう;実際、霊的な身体は、どのようにして土地的な鉄(の刀)によって割礼されることができたのか。それ故に、彼らの中のある人たちは、彼の割礼の包皮について、諸々の書物を公刊することを恥じなかった。彼らはそれらの書物によって、(その包皮が)霊的な実体の中に行き着いたいうことを明示することに努力している。しかしそれにも劣らず、キリストの身体は魂的な身体であると主張する人たちも、窮地に立たされるだろう[10]

そればかりか、兵士から槍によって刺された彼の脇腹から発出した彼の血と水に関しても[11]、諸々の同じことが感知されねばならない。自分たちが何を聞いているかを知っている人たちにとって、諸々の釘の諸々の姿が彼の身体の中にあったと言われていることによって[12]、次のことが明白に言明されている:すなわち、(彼の)肉は土地的なもの、すなわち、人間的な本性――それは、諸々の傷を受ける性質を免れたものではなかった――に属するものであったこと。

しかしもしも彼が、死それ自体の中で、人間的な弱さに属する多くの事柄を感じなかったとすれば、どうして彼の魂は困惑させられ[13]、そのために死に至る程の悲しみがあるのか[14]。それらすべてのことは、彼が偽りとしてでなく、人間として、次のことを言ったことを判然と明示している:「精神は前向きであるが、肉は弱い[15]」と。

それに劣らず、睡眠の理拠の同じ諸々の事柄を明示している――マルコが述べているように、「彼が艫の中にいて、枕の上に寝ていた」が、人間によって睡眠から起こされたと言われるとき[16]。もちろんそれらは、霊的な理解を持っているとしても、しかしながら、先ず歴史の真理が存続することによって、霊的な意味も受け取られねばならない[17]

実際、彼は、盲人たちを霊的な理解に即して常に癒している――彼が、無知によって盲目になった諸々の精神を照らすとき。しかしながら、彼は身体的にも盲人を健康にした[18]。そして彼は、死者たちを常に起こしている。しかしながら、当時もそのような仕方の諸々の驚くべき事柄を行った――会堂の司の娘[19]と寡の息子[20]とラザロ[21](を起こしたように)。そして、教会の諸々の竜巻や諸々の暴風を鎮めるように、弟子たちによって常に促されるとしても、しかしながら、歴史を通して述べられる諸々の事柄が当時も行われていたことは確実である[22][したがって、そのように()文書の意味を受け取るのが健全である[23]]

また、彼はマリアを通して生まれたのであって、マリアから生まれたのでないと言う人たちに耳を傾けるべきではない。使徒はそのことを予知して、次にのように予言した:「しかし諸々の時の充満が来たとき、神はご自分の子を、女から作られた者、律法の下で作られた者として派遣した――律法の下にいた者たちを贖うために[24]」と。あなたは、彼が(御子は)女を通して作られたと言わず、女から作られたと言ったのを見る[25]



[1] Mt.1,1.

[2] Ga.3,16.

[3] Rm.1,3.

[4] Mt.4,2.

[5] Cf.Ex.34,28 et 1R.19,8.

[6] Cf.Jn.4,6-7.

[7] Cf.Lc.7,36; 11,37; Jn.2,1.

[8] Mt.11,18-19.

[9] Mt.11,19.

[10] この段落と次の段落には、シリア語訳が伝わっている:

そして少し後で、同様に彼が施された割礼は、我々を困らせない。なぜなら我々は、(彼の)身体が、我々の割礼される身体と似ていたと主張するからである。そしてさらに、そのことがすべての人たちに承認されたとした上で、包皮に関する事柄が探求されねばならない。さてその割礼は、それに反対する人たちを困惑させ得る。なぜなら彼らは、土地的な鉄によって割礼される霊的な身体を証明することができないからである。それに関して、彼らの内の誰一人として、(その包皮が)霊的な本性に行き着くことを証明するために、包皮について書き、諸々の書物を作成することに嫌悪を感じない。前者の人たちに劣らず、キリストの身体が魂的であると主張する人たちも困惑させられる。我々は、兵士たちの一人によって槍によって貫かれた彼の脇腹から出た血と水に関して不確かさを持つ。そして、言われたことを聞く術を知っている者にとって、彼の体の中に植えられた諸々の釘の諸々の場所は、それが真の肉であって、神的なものでなく、諸々の傷を免除された肉でもなかったことを知らしめる。

[11] Cf.Jn.19,34.

[12] Cf.Jn.20,25.

[13] Cf.Jn.12,27.

[14] Cf.Mt.26,38 et par.

[15] Mt.26,41. et par.

[16] Mc.4,38 et par.

[17] Haec enim licet habeant spiritalem intellectum, tamen manente prius hitoriae ueritate etiam spiritalis recipiendus est sensus.

[18] Cf.Jn.9,1s; Mt.12,22; Mc.8,22s; 10,46s; Lc.18,35s.

[19] Cf.Lc.8,40s.

[20] Cf.Lc.7,11s.

[21] Cf.Jn.11,1s.

[22] Cf.Mt.8,23s.

[23] 翻訳者ルフィヌスか後世の写字生の加筆かもしれない。

[24] Ga.4,4-5.

[25] この段落には、シリア語訳が伝えられている:

そして少し後で。諸々の事柄はその通りであるから、我々は、次のことを言う人たちに注意すべきでない:彼はマリアを通して存在したであって、マリアから存在したのでないと。そのことは、パウロ自身も次のことを言うとき主張している:「諸々の時の充満が来たとき、神はご自分の御子を派遣した。そして彼は女にから存在した。そして彼は律法の下に存在する。それは、彼が律法の下にある者たちを贖うためである」と。彼は女と通して存在していたと、彼は言ったのでなく、女から存在していたと言った。

 

 

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