120 オリゲネス:ところで、モーセの律法は、み使いたちを通して、仲介者キリストの手と力との中で与えられた[1]。彼は、「始源において神の言葉であり、神と共にあり、神としてのみ言葉であった[2]」とき、すべての諸々の事柄の中で父に奉仕していた。実際、「すべての諸々の事柄――すなわち、諸々の被造物ばかりでなく、律法も諸々の預言も――は、それを通して成った[3]」。そしてそれ自身は、「神と人間たちとの仲介者[4]」である。そのみ言葉が、実に諸々の代の終わりの中で、人間と成ったイエス・キリストである。しかし、この明白な肉における到来の前に[5]、彼は確かにすべての者たちの仲介者であったが、まだ人間ではなかった。しかしながら、その時でも彼は、「神と人間たちとの仲介者[6]」であった。それ故、与えられた律法も、み使いたちを通して、仲介者自身の諸々の手の中で与えられたと言われる[7]――それが、「律法が聖なる者となり、掟が聖にして義にして善なるものになる[8]」ためであり、そして、それらすべてのものがキリストによって聖化さえるために。



[1] Cf.Ga.3,19.

[2] Jn.1,1.

[3] Jn.1,3.

[4] 1Tm.2,5.

[5] Cf.Jn.1,14.

[6] 1Tm.2,5.

[7] Cf.Ga.3,19.

[8] Rm.7,12.

 

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