123 オリゲネス[1]:我々が次のことを言っていると、人は憶測しないでもらいたい:()文書の如何なる歴史も行われなかったと我々が理解している、なぜなら我々が、それらの幾つかの事柄は行われなかったと我々が憶測しているからと;あるいは、律法の如何なる掟も文字に即して存立しないと(我々が理解している)、なぜならそれらのある幾つか(の掟)は――それらの中では理性も現実の可能性も(その遵守)許さない――文字に即して遵守され得ないと我々が言っているからと;あるいは、救い主に関して書かれた諸々の事柄が感覚的にも成し遂げられていないとか、彼の諸々の戒めは文字に即して遵守されるべきでないと(我々が)考えていると。そたがってそのために、次のことが応えられねばならない:大部分の箇所の中で歴史の真理が守られ得るのあり、そして、そうされるべきであると、我々によって明晰に判断されていることを。

実際、誰が次のことを否定できるだろうか:アブラハムがヘブロンにおいて二重の洞窟の中に埋葬され[2]、イサクもヤコブも彼らのそれぞれの妻たちも(洞窟の中に埋葬されたこと)[3]。あるいは、シェケムがヨセフの取り分の中に与えられらことや、エルサレムがユダヤの母なる都であり[4]、その中に神の神殿がソロモンによって建設されたこと[5]を誰が疑うだろうか。そして他の無数の箇所(を誰が疑うだろうか)。実際、歴史に即して真実な諸々の事柄の方が、端的で霊的な意味を含む諸々の事柄よりもはるか多い。

次に誰が、次の掟:すなわち、「あなたは、あなたの父と母を尊敬しなさい――それがあなたにって善いことになるために[6]」と命じる掟が、如何なる霊的解釈がなくとも十分であること――取り分けパウロがその同じ掟を同じ諸々の言葉で繰り返し断言しているが故に[7]――(それを)遵守する者たちにとって必要であることを断言しないだろうか。また、(次のように)言われていることに関して何を言うべきだろうか:「あなたは、姦淫してはならない、あなたは殺してはならない、また、あなたは盗みをしてなならない、あなたは偽りの証言をしてはならない[8]」、そして、それに類する他の諸々の事柄。他方、福音の中で命じられて諸々の事柄に関しても、それらが文字に即して遵守されるべきことは疑い得ない――たとえば、次のことを言うとき:「しかし私は言う、あなた方は決して誓ってはならないと[9]」;そして彼が次のことを言うとき:「女性を欲しがるために見詰める人は、既に自分の心の中で彼女を姦淫したのである[10]」と;そして、使徒パウロの許で次のように定められた諸々の事柄:「あなた方は、落ち着きのない者たちに忠告しなさい、小心な者たちを慰めなさい。弱い者たちを支えなさい、すべての者たちに忍耐強くありなさい[11]」、そして、他の極めて多くの事柄。



[1] Cf.De Princ.,IV,3,4(20),116-150; Philocalie,1,20.

[2] Cf.Gn.23,9,19.

[3] Cf.Gn.49,29-32; 50,13.

[4] Cf.Is.1,26.

[5] Cf.1R.6,1s.

[6] Ex.20,12.

[7] Cf.Ep.6,2-3.

[8] Ex.20,13-16.

[9] Mt.5,34.

[10] Mt.5,28.

[11] 1Th.5,14.

 

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