134 オリゲネス:実際、一切の理性的魂は、成長することや滋養することや運動だけの機能を提示すると言われる諸々の魂よりも多くのものを持っているように、人間的な身体の中にある理拠は、他の諸々の身体の中にある理拠よりもはるかに多くのものを持っている。なぜなら、人間的な身体は、たとえ腐敗しても、神の力によってその復活の時まで保持され守護されて、存続することができるからである。

他方、(その身体が)存在していた場所で回復されること、すなわち、それが横たわっていた一切の場所から回復されることを、ヨハネは彼の啓示の中で次のように言っている:「そして海は、みずからの中に持っていた死者たちを返した。そして、死と黄泉も、自分たちの中にいた自分たちの死者たちを戻した[1]」と。実際おそらく、私が考えるように、ここで一切の湿った元素の代わりに海が呼ばれ、空気の代わりに諸々の黄泉が(呼ばれ)、他方、土地の代わりに死が(呼ばれた)のだろう。すなわち、それらは互いに或る血縁を持っているため、()文書は我々の身体を、「死の塵[2]」や「土地[3]」や「死の身体[4]」と呼んでいる。

確かに、この生活の中での一人ひとりの準備に応じて、各人の復活の様態も変わる。ここでより幸福に生きた人の身体は、復活の中でより神的な輝きで輝くだろう。そして、彼に適した、幸福な諸々の場所の住処を分配されるだろう。それに対し、自分に授けられた現在の生活の時間を悪徳の中で費やした人には、ただひたすら諸々の罰の中で苦しみ耐えることしかできないような身体が与えられる。そして、使徒パウロはその違いを明示することを望んで次のことを言っていると、私は考える:「動物たちの肉、鳥たちの肉、魚たちの肉――そして使徒が枚挙した他の諸々のもの――は、それぞれ異なる[5]」。

しかし、罪人は動物たちの身体や鳥の(身体)や魚たちの(身体)を受け取るだろうと考えられるべきでないように、栄光の中で復活する者たちは、太陽の(身体)や月の(身体)や諸々の星の(身体)を受け取ると期待されるべきでない[6]。むしろ、それらの事柄は使徒によって例として言われたと考えられるべきである――それらの事柄によって次のことが示されるために:他の者たちは、自分たちの諸々の功績に応じて、より栄誉ある者、そして、より輝ける者になり[7]、また、より幸いな諸々の住居を籤引きするだろう;それに対し、他の者たちには、諸々の行いの罪悪に応じて、極めて不相応で最もうち廃れれた境位があるだろう。その境位は、更に、多くの動物たちに比較されるのが相応しい。



[1] Ap.20,13.

[2] Ps.21,16.

[3] Gn.3,19.

[4] Rm.7,24.

[5] 1Co.15,39.

[6] Cf.1Co.15,40-43.

[7] Cf.1Co.15,43.

 

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