137 オリゲネス:したがって次のこと言うのは一層よい:我々は皆、復活するだろう[1]――不敬虔な者たちは、嘆きと諸々の歯の軋み音がある場所に向かうために[2];義人たちは、一人ひとりが自分の順番の中で[3]、各自の諸々の善き行いの功績に即して(報いを)受け取る場所に向かうために;そのとき彼らの卑しさの身体は変容され、キリストの栄光の身体と同じ形姿になるだろう[4] :「実に腐敗の中で蒔かれるものは、不滅の中で起き上がるだろう。恥辱の中で蒔かれたものは、栄光の中で起き上がるだろう。弱さの中で蒔かれたものは、力の中で[すなわち復活の時に[5]]起き上がるだろう。そして、魂的な身体として蒔かれたものは、霊的な身体として復活するだろう[6]」。

したがって、すべての者たちが復活し、そして、「一人ひとりが自分の順番の中で」復活するとしても、ヨハネが自分の啓示の中で「第一の復活への参与を持つ者は幸い。彼の中で第二の死は彼の中で権能を持たない[7]」と言った言葉の故に、一切の復活の理拠は、二つの諸々の参与に分割される得るのか考察されねばならない、すなわち、義人たちとして救われる者たちと、罪人たちとして苛まれるべき者たちとに(分割され)――その結果、「第一の(復活)」と言われる善人たちの参与があり、他方で、哀れな者たちのものである参与が「第二の()」と言われるのか;そして、前者の参与は、あらゆる点で純粋で陽気で、一切の喜びに満ちている;他方、後者の参与は、まったく悲しく、嘆きにまったく満ちており、次の人たちの諸々の行動と生活とに相応しい――次の人たちとは、現在の生活の中で彼の諸々の掟を軽蔑し、彼の裁きの恐れを無視することによって、全き不純と貪欲との働きの中に自分たち自身を委ね[8]、人間的な種族に対立し敵対する諸々の権能に対して対抗的に抵抗することができるように[9][10]、自分を備える努力をしなかった人たちである。

しかし、死者たちの「諸々の墓[11]」は、他の多くの諸々(の箇所)におけるのと同様にこの箇所においても、()文書のより確実な意味に即して、人間的な諸々の身体の安置のために、諸々の岩の中で切り出されたり、土地の中に掘られたりして建設されたように見える諸々(の墓)ばかりでなく、完全無欠な人間的な身体やその何らかの部分が横たわる一切の場所であると受け取られるべきである。たとえ一つの身体が多くの諸々の場所を通じて分散されていても、身体の何らかの部分が横たわるすべての諸々の場所が、その身体の「諸々の墓」であると言われることは、馬鹿げたことでないだろう。実際、諸々の死者たちが神的な力によって自分たちの諸々の墓から再起することを[12][13]、我々がそのように受け取らないなら、決して埋葬に委ねられなかったり、諸々の墓の中に安置されなかったりし、諸々の難船の中や何らかの諸々の荒れた場所の中でなくなって、埋葬に委ねられ得なかった人たちは、「諸々の墓から再起するだろう[14]」と言われる者たちの中に数え入れられるようには見えないだろう。言うまでもなくそれは、甚だしく馬鹿げたことである。



[1] Cf.1Co.15,51.

[2] Cf.Mt.8,12 et par.

[3] Cf.1Co.15,23.

[4] Cf.Ph.3,21.

[5] [ ]内は削除可能。

[6] Cf.1Co.15,43-44.

[7] Ap.20,6.

[8] Cf.1Ep.4,19.

[9] Cf.1Co.15,43-44.

[10] Cf.1P.5,8-9.

[11] Is.26,19.

[12] Is.26,19.

[13] Cf.1Co.6,14.

[14] Is.26,19.

 

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