15 他の類の人たちもいる。彼らは実に不快で、諸々の良風の品に関する限り醜悪であり、中傷することにかけては熱烈であり、非難することにかけてはおぞましい。ギリシア人たちは、彼らを「侮辱食らい[1]」と呼んでいる。彼らは、最高の熱意と粘り強い労苦を彼の諸々の書物に与え、彼を万事における師と見なし、特別な弟子であるかのように彼に身を委ねていた。しかし、彼ら自身が弟子と呼ばれるよりも、むしろ師と呼ばれることを望むようになり、聴衆からの喝采が追従し始めるようになると、聞き手の人たちの誰かが、賞賛されている諸々の事柄がオリゲネスに属するものであるとして騒ぎ立てようものなら、彼らは、賞賛において師に負けないようにするため、その非難に負けないようにするため、オリゲネスとは無縁であると直ちに抗議し、彼の教えと共通するものは自分たちのところに一切ないと断言する。そればかりか彼らは、不誠実にも、彼を呪詛することを憚らず、数々の悪口を浴びせることも惜しまない。彼らは、使徒の次の言葉を恐れない。すなわち使徒は、「悪口を言う人たちは、神の国を所有しないだろう[2]」と言っている。



[1] 原語はラテン語でなく、ギリシア語:fagoloi,doroi。ギリシア語が文字化けした場合は、訳者(朱門)が使用するフォントを入手して、適当にインストールすれば、大丈夫です。

[2] 1Co.6,10.

 

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