罪人たちの諸々の罰に関して

151 オリゲネス[1]:私は次のことを考える:身体の中で食べ物の豊かさと食物の敵対的な質や量が諸々の熱を生み出す;そして、集められた過剰が諸々の熱の材料と薪を提供する尺度に応じて、諸々の熱は様々な様態や時間の熱となる――その様々な過剰から集められた材料の質が、疾病の軽重の原因である――。同様に魂も、諸々の悪しき業の多数と共に、諸々の罪の豊かさを自分自身の中に集めたとき、適切な時にその諸々の悪の集合の一切が責め苦へと喚起され、諸々の罰へと焚き付けられる。そのとき、精神それ自身あるいは良心は、神的な力を通して、すべて(の功罪)を記憶の中へと受け取り――それらの諸々の印と諸々の形姿を、自分が罪を犯したとき、自分自身の中に刻印していたのであり、自分が醜くかつ汚らわしく行った、あるいは更に不敬虔に犯した自分の諸々の個々の行為の(諸々の印と諸々の形姿を自分自身の中に刻印した――、自分の諸々の罪業の歴史が自分の諸々の目の前に提示されたのを見るだろう。そのとき良心それ自身も、自分自身の諸々の刺激によって動揺させられ棘刺され、自身が自分自身の告訴人と証人になる。そのようにそのことを使徒パウロも、次のことを言うとき感知していたと、私は思う。彼は言う:「諸々の思惟が互いに告訴し合い弁護し合うことによって――神が、私の福音によると、イエス・キリストを通して人間たちの諸々の隠された事柄を裁く日に[2]」と。



[1] 本節は、『諸原理について』II,10,4,133-154からの抜粋。

[2] Rm.2,15-16.

 

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