157 オリゲネス[1]:取り分け、この身体の中で我々が感じる諸々の苦痛から(以上のこと)考察することができる。それらの(苦痛)は、どんなに大きくても、確かに短い時間に属している。なぜなら、それら(の苦痛)が僅かでもより激しく実在したなら、それらは直ちに命の迅速な終わりももたらすからである。実に、多くの(キリスト)者たちは、もしも事柄が要求したなら、敬神の告白の故に、諸々の拷問の中で魂を(神に)返す。しかし他の人たちは、栄冠への近道そのものの中に《予め置かれていたにもかからず[2]》、死に至るまで告白することを意図していた信仰を否定する。彼らは、(信仰の)衰弱によってそのことを被るのでなく、苦痛の耐えがたく途方もない力によって凌駕されたからである。

したがって、もしもこの現在の生活の中で諸々の罰の諸々の苦痛がそれほどまでに耐え難いものであるとすれば、魂が重厚な衣服をもはや使用せず、復活によって霊的なものとなったそれを受け取り、それが微妙なものになればなるほど強烈に苦痛の力を感覚するとき、何が考えられるべきか。実際、私は次のことを考える:現在の代の中で、(身体が衣服を脱いで)裸で鞭打たれることは、責め苦を受けることに関して、(衣服を)着て鞭打たれることとは大いに違う。なぜなら、諸々の鞭打ちは、着衣した身体よりも裸の身体をより激しく拷問するからである。それと同じほどの苦痛の将来の違いを私は考える――人間的な身体が、この重厚な衣服を脱ぎ置き、あたかも裸のように、諸々の責め苦を耐え忍び始めたとき。



[1] 本節は、『第六詩編注解』からの抜粋である。

[2] 《 》は、推測による復元。

 

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