160 実際に彼は、魂に関するその教説が明瞭にも明白にも教会的宣教の中に持たれていないのを知っていたので、討論する何らかの機会あるいはむしろ(その討論の)着想を()文書の言葉が提示する場合には、彼は、彼の理解に現れる諸々の事柄を議論し取り扱いつつ、識別され検証されるべきそれらの諸々の事柄を読者たちに提示した。そして彼は、それらの諸々の事柄を明白な教説として、あるいは、決定的な判決の権威によって定義せず、しばしば次のことも付け加えた:「しかしながら、我々が魂に関して論じた言葉が何らかの論理的帰結を持っているように見えるなら、あるいは、証明されるなら」と。

 

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