172 しかし問責の一切の機会が徹底的に排除されるために、別の仕方で応えることが可能である。実際、天の諸々の発光体に関して、それぞれの人たちが――教会の中にいる人たちであっても――様々なことを感知している:他の人たちは、それらが理性的な生き物たちに属する諸々の生き物であると意見し、他方で他の人たちは、それらが非理性的なものであること、さらにそれらが魂ばかりでなく一切の感覚もまったく欠いており、霊も感覚もない単なる物体であると意見している。しかしながら、それらの事柄をそのように多様に感知する者たちの一方を誰も正当に異端者であると言わないだろう。なぜなら、それらの事柄に関しては、使徒的宣教の中に明白に(教えが)伝えられていないからである[1]。同様に、人間的魂に関して疑念を持ち、その始まりや起源に関して多様なことを意見する者たちを異端者たちであると表明することは、正しいことではない――取り分け彼らが、教会的教義の他の諸々の規則の中で正しくかつカトリック的なことを保持しているからである。



[1] De Princ.Prol.10,186-187(Apol.Or.,27).

 

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