178 オリゲネス[1]:実にある(特定の)人たちは、「来たるべき方はエリヤ自身である[2]」と言われていることから、エリヤの魂はヨハネの()と同じだったと意見した――実際、「(来たるべき方は)彼自身である」と言っていることは、他ならぬ魂に帰せられるべきだと、彼らは考えてきた――。そして彼らは、ほとんどこの言葉だけから、メテンソーマトーシスの教説すなわち諸々の魂の転生の教説を導入した――あたかもイエス自身がそのことを確証しているかのように。しかし彼らは、次のことを凝視すべきだった:すなわち、もしもそれが真実であるなら、言うまでもなく預言者たちや諸々の福音の多くの諸々の書物の中に何かしら似たことが見出されねばならないということ(を凝視すべきだった)。更に次に、それに付加されている言葉は、彼らが文字だけの理解に従って受け取っていたこと以上に秘密で密やかに意味が、諸々の言われた事柄の中で探求されねばならないことを明示している。なぜなら彼は、「諸々の聞く耳を持つ者は、聞きなさい[3]」と言っているからである。

しかし、次のことも付け加えられねばならない:もしも、彼らが感知していることに従って、諸々の罪の故に諸々の魂の転生が行われるのでれば、どのような諸々の罪の故にエリアの魂はヨハネ――我らの救い主イエス(の誕生)をも(告げた)同じみ使いによって誕生することが告げられたヨハネ[4]――の中に転生したのか。したがってどうして次のことが明白極まりない欺瞞でないのか:確かにあの共通の死を味わなないほど完全だった方が[5]、彼らの主張によれば諸々の罪からでなければ起こり得ない魂の転生へと至ること。次に彼らは、ヨハネに向かって(次のように)言われたことをどのように提示するのだろうか:「あなたは、エリヤですか」;そして「私は、(エリヤ)でない」(と言ったこと)。しかしそのことが、「もしもあなた方が受け入れることを望むなら、彼自身が来たるべきエリヤである[6]」と主が言った言葉に適合することを明示するために、「彼自身がエリヤでる」と(主が)言ったことは、エリヤの霊と力に帰着されるべきである。なぜならヨハネは、「父たちの心を息子らに向けるためにエリヤの霊と力の中で先行した[7]」からである。



[1] 本節は、『マタイによる福音注解』第七巻からの抜粋である。

[2] Mt.11,14.

[3] Mt.11,15.

[4] Cf.Lc.1,11-19.26-38.

[5] Cf.2R.2,11.

[6] Mt.11,14.

[7] Lc.1,17.

 

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