180 オリゲネス[1]:確かに、カトリック的信仰[2]とは無縁な人たちは、諸々の魂は諸々の人間的身体から、動物たちの諸々の身体の中に[3]、諸々の罪の違いに従って転移されると考えている。しかし我々としては、そのことが神的文書の中で保障されているのをまったく見出さないため、「人間的な知性は、耕されず等閑にされると、非理性的な家畜のようなものになる」と主張する――本性によってでなく、無知によって、あるいは、怠惰によって[4]。しかし同様に、みずからの意図の怠惰から、そのような者たちに成った者たちが――彼らはその怠惰によって教育されることを怠った――、もしも教育と理性的な訓練にみずからを委ねるなら、理性的で思慮深い者たちに成る。それは、「自分たちの主人たちの食卓の上から落ちる諸々の(パン)屑を食べていた[5]」あの福音的な犬たちに関して書かれている通りである。カナンの女はそれら(の犬)から回心し、神の娘になった――救い主が彼女に言っている通りに:「おお娘よ。あなたの信仰は偉大である[6]」と。実際、魂の徳力は、一人ひとりに、神の子であることをもたらすのと同様に、精神の悪性と諸々の言葉の狂気と破廉恥は、聖書の権威に従えば、一人ひとりを犬と呼ばしめる。しかし、他の無言の動物たちの諸々の呼称に関しても、同様に理解されるべきである。



[1] 本節は、『マタイによる福音注解』第十一巻十七からの抜粋である。

[2] 「教会の教え」(『マタイによる福音注解』のギリシア語原文)

[3] 「犬たちの諸々の身体の中に」(『マタイによる福音注解』のギリシア語原文)

[4] 「無知によって、あるいは、怠惰によって」は、ギリシア語原文にはないため、訳者(ルフィヌス)による補足か後代の書き込みの可能性あり。

[5] Mt.15,27.

[6] Mt.15,28.

 

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