182 オリゲネス[1]:それら(の言葉)の中で[2]、エリヤの魂でなくエリヤ(その人)が言われていると私には見える――我々が、諸々の魂の転生に関して神の教会とは無縁の教説に走り込まないようにするために。その教説は、使徒たちから伝えられてもいなければ、諸々の()文書のどこにも保証されていない。実にそれは、使徒によって言われている諸々の事柄:すなわち、「見られる諸々のものは、時間的なものである[3]」ということに反している――そして、すべての()文書が確証していること、すなわち、「現在の代は必ず終わる[4]」ということは(その教説の)どこにあるのか――。そればかりか、「天と地は過ぎ行くだろう[5]」とい言われていることは(その教説では)存立し得ないだろうし、「なぜならこの世の習態は過ぎ行くだろう[6]」と使徒が言っていることも、そして、「諸々の天は過ぎ行くだろう[7]」と(それに)続く諸々の事柄も(存立し得ないだろう)

実際もしも、この教説の権威者たちが言うように、世界の始めから終わりに至るまで、誰一人として最初にあった初めに回復され得ないなら、どのような理由から魂は、二度も三度も、あるいは頻繁に(他の身体に)変位されたり運ばれたりしなければならないのか。実際、彼らはそのような仕方で一人ひとりの諸々の過失は報いを受け、諸々の罰が科せられる――もしも諸々の異なる身体の中により頻繁に転生されるなら――と主張する。ともかく、もしも矯正の如何なる終極も生起せず、魂が転生されないときがそもそもないとすれば、そのことは無駄に生起するだろう。そしてもしも常に諸々の過失の故に諸々の魂は諸々の異なる身体へと回帰しなければならないとすれば、そのそもどんな終極が世界に与えられるのだろうか――「天と地は過ぎ行くだろう[8]」と言われていることが成就されるために。

そしてもしも、たとえば、罪がない人がいて、彼がもはや身体の中に転落する必要がないということが譲歩されるとすれば、どれほど多くの諸々の時を経て我々は、徹底的に純粋で、身体の取替も必要としない一つの魂が見いだされると、我々は考えるだろうか。しかし、もしもそのことが譲歩されるとしても、その教説に対立する事柄が将来する:実際一つひとつのどの僅かな魂たちにも、もはや身体の中に来る必要がないほどに完成へと回復され得ることを、もしも我々が認めるとすれば、際限なき代々と計り知れない諸々の時を通してでも完成へと回復された一つひとつのどの魂たちにも、もはや諸々の身体の使用は絶えるのは必然であり、そしてそれによって世界が終わりを受け取り解体されることは必然である。しかし、聖文書にはそのようには見られていない。それは、代の終わりの中で罪人たちの多数が残っているはずだと言っている。そのことは、福音の中に書かれていることから明白に示される:「しかしながらあなたは、人間の子が来て、土地の上に信仰を見出すだろうと考えるのか[9]」;「人間の子の到来も、ノアの日々におけるのと同様だろう[10]」と。



[1] Mt.15,28.

[2] 2Co.4,18.

[3] Cf.Mt.17,10-13.

[4] Cf.Mt.13,39-40.

[5] Mt.24,35.

[6] 1Co.7,31.

[7] Ps.101,27.

[8] Mt.24,35 et par.

[9] Lc.18,8.

[10] Mt.24,37.

 

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