19 それは、次のように追求されるのがより正しいと我々には思われた:すなわち我々は、我々の諸々の言葉や諸々の主張によって弁護を準備するのでなく――あの人たちが反対している諸々の事柄、すなわち普遍の信仰[1]に反して宣べ伝えられているどのような事柄とも彼自身が無縁であることを彼がみずからの言葉で証している――その彼自身の諸々の声から弁護を準備する。なぜなら、もしも我々が我々の諸々の言葉でそれらの事柄を主張しようと望むなら、我々が彼への愛から、彼が不適切なことを考えた場合、それを隠蔽したという疑念が抱かれるかも知れないからである。しかし、非難されている人自身の諸々の声を我々が使い、批判者たちのすべての反対に対して、我々の主張によってではなく彼自身の諸々の言葉によって我々が彼を弁護するなら、中傷のどのような口実が残されるだろうか――真実の熱意によってではなく、非難するという快楽のごときものによって常に興奮させられている彼らに。そして、人間たちにとって今は亡き彼について話題になっているのであるから、裁き手である人間たちにとって、故人の諸々の文字と著作を除いていったい何が、故人のためにいっそう堅固かつ強力に有効だろうか。



[1] fides catholica:このラテン語は、既にしばしば出てきたが、東西教会が分立する以前の「正統」信仰は、「カトリック(普遍)の信仰」と呼ばれていた。

 

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