23 実際、ギリシア人たちと野蛮人たちの内の多くの者が真理を約束しているが、我々は、誤った諸々の考えによって真理を主張するすべての者たちの許でそれを探究する習慣を捨てた。――我々が、キリストが神の子であることを信じ、彼から真理を学ぶべきであると確信した後は。それと同様に、キリストに属する事柄を考察していると考える者たちは多いが、彼らの内の少なからざる者たちが、先人たちとは異なる様々な事柄を思考しているが、使徒たちから伝えられた教会的宣教は、継承の秩序を通して保存され、現在に至るまで諸教会の内に存続しているのであるから、教会的伝統といかなる点においても相違しない事柄のみが真理であると信じられねばならない。

しかしながら、次のことを知らなければならない:聖なる使徒たちはキリストの信仰を宣べ伝えたとき、或る諸々の事柄については、彼らが必要であると信じた事柄をすべての信者たちに――神的な知識の探求に対していっそう怠惰出あるように見えた人たちにも――ことごとく極めて明瞭に伝えたが、彼らの主張の理拠は、霊の諸々の卓越した賜物、特に知恵の言葉と知識の言葉の賜物を聖霊ご自身から受け取るのに相応しいと見なされた者たちによって[1]探求されるように残して置いた。他方、他の諸々の事柄については、彼らは、それらが存在すると述べたが、しかしそれらがどのようにして、あるいはどこから存在するのかについては沈黙した。しかし実際には、その目的は、彼らの後の人たちの中でより熱意で、知恵を愛する者たち[2]がそれぞれ、各自の才能の実りを披露できる修練を持つことができるようにすることである。もちろん彼らは、知恵を受容するためにそれに相応しく身を整える人たちである。

使徒的宣教によって極めて明白に伝えられた諸々の事柄の細目は次の通りである:

第一に、すべてのものを造り、構成し、無から宇宙万物を存在させた神は唯一である。神は、世界の最初の創造と創設以来、義人たちの神――アダム、アベル、セツ、エノス、エノク、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブ、十二人の族長たち、モーセと預言者たちの神――である。この神は、終わりの日々において、彼の預言者たちを通してあらかじめ約束したとおり、主イエス・キリストを派遣した――最初にイスラエルを招かせるために、次に、イスラエルの民の背信の後は、異邦人たちを招かせるために。この神は、正しく善い方であり、我々の主イエス・キリストの父であり、彼ご自身が律法と預言者たちと諸々の福音を与えたのであり、使徒たちの神、古い契約と新しい契約の神である。

次に、既に来臨したメシア・イエス自身が、一切の被造物に先立って父から生まれた。彼は、すべてのものの創設において父に仕えていたが―実に彼を通して、すべてのものが造られた[3]――、終わりの諸々の時において、ご自身をむなしくし、人間になった[4]。彼は、神でありながら受肉した。彼は、人間となったが、神のままであった。彼は、我々の身体に似た身体を取った――その身体は、乙女と聖霊とから生まれた[5]ということにおいてのみ(我々の身体と)異なっている。そしてこのイエス・キリストは、見かけにおいてではなく、真実において生まれ、苦しみ、この共通の死を真実に死んだ。なぜなら彼は、死者たちの内から真実に復活したからである。そして復活の後、彼は、自分の弟子たちと交流し、(天に)上げられた。

 次に、栄誉と尊厳において、父と子に聖霊が結ばれていると、(聖なる使徒たちは)伝えた。しかしその霊について、それが生まれたものか、それとも生まれざるものかということは、未だ明瞭に識別されていない[6]



[1] Cf.1Co.12,7-8.

[2] Cf.Sg.8,2.

[3] Cf.Jn.1,3.

[4] Cf.Ph.2,7.

[5] 「生まれた」のラテン語の主語は、「キリスト(メシア)・イエス」ではなく、彼の「身体」である。

[6] 後出の25節に続く。

 

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