25 また、それ自身[1]も神の子であると考えられるべきか否かということも(未だ明瞭に識別されていない)。しかしそれらの事柄も、諸力を尽くして、聖文書から探求されねばならず、明敏な精査によって探求されねばならない。もちろん、その聖霊が聖なる人たち――預言者たちであれ、使徒たちであれ――のひとり一人に霊感を与えたこと、また、旧約の人たちにおける霊と、キリストの来臨において霊感を与えられた人たちにおける霊が異なるものではないことは、もっとも明白に教会の中で宣教されている。

それらの事柄の次に、実体と固有の命を持つ魂は、この代を離れたとき、その諸々の功績に応じて処理され、永遠の命と至福の嗣業地を所有すること――もしもその諸々の行いがそれを彼に提供するなら――、あるいは、永遠の火と諸々の責め苦に渡されること――もしも諸々の悪行が魂をそのことに向かわせるなら――、それらのこと(も、極めて明白に教会の中で宣教されている)

 そして、次のことも教会的宣教の中で規定されている:すなわち、一切の理性的魂は、自由な意志と意欲を持っていること、また、悪魔とその使いたちと敵対する諸力とに対する戦い――なぜなら彼らは、諸々の罪の重荷を魂に負わせようと狙っているからである――がそれにはあること、他方、我々は、もしも正しく慎重に生活するなら、その種の滑落から我々を解放しようと努めるべきこと。それゆえ、我々がたとえ望まなくても、諸々の善きことや諸々の悪しきことを行うことをあらゆる仕方で強制されるほどの必然性に我々が従わされてはいないと理解しなければならない。実際、もしも我々に意志があるなら、ある諸々の力は、我々を攻撃して罪に向かわせることができるのであり、ある諸々の力は、(我々を)助けて救いへと向かわせることができるのである。もちろん、我々は必然性によって、正しく行動したり悪しく行動したりするように強制されない。そのようなことが行われると考えているのは、諸々の星の軌道と運動が、人間たちの諸々の行い――すなわち、意志の自由の外で生起する諸々の事柄でなく、我々の権能の内に置かれた諸々の事柄――の原因であると主張する人たちである。

しかし、魂について、それが種の伝搬に由来するもので、それ自身の理拠や実体は、身体的な諸々の種それ自体に含まれると考えられるべきか、それとも別の端緒を持っいて、しかもその端緒は産み出されたものなのか、生まれざるものなのか、あるいは、外部から身体に入れられたものなのか否かは、十分に明白な宣教によって明確にされていない。

悪魔とその使いたち、および、敵対する諸力について、教会的宣教は、それらが存在することを教えたが、しかし、それらが何であるか、あるいは、それらがどのように存在するかを十分明晰に説明しなかった。しかし、極めて多くの人たちの間で、次の見解が抱かれている:すなわち、悪魔はみ使いであったが、離反者になると、できるだけ多くのみ使いたちを自分と共に変節するように説得した。彼らは、それ以来、今日でも、彼のみ使いと言われている。

さらに、次のことも教会的宣教の中に含まれている:すなわち、この世はつくられたこと、或る特定の時に始まったこと、それ自身の腐敗のゆえに分解すること。しかし、この世の前に何があったのか、また、この世の後に何があるのかは、未だに多くの人たちにとって明瞭に知られていない。実際、それらの事柄に関する発言は、教会的宣教の中で判明に述べられていない。

次に、神の霊によって(聖なる)諸々の文書は著作され、明白な意味を持つばかりでなく、極めて多くの人たちに隠れている別の意味を持つこと(も教会的宣教の中に含まれている)。実際、記載された諸々の事柄は、或る諸々の秘蹟の諸々の象徴であり、神秘的な諸々の事柄の諸々の像である。次のことについて、全教会の意見は一つである:一切の律法は霊的であること[2]、しかし律法が霊的に示している諸々の事柄は、すべての人に知られておらず、聖霊の恵みが知恵と知識との言葉の内に授けられている人たちだけに知られていること[3]



[1] 前節の聖霊をさす。

[2] Cf.Rm.7,14.

[3] Cf.1Co.12,8.

 

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