しかし、我々は――彼が(聖なる)諸々の文書の過大な吟味と多大な検討を通して、検討者の魂に湧き起こった諸々の事柄のゆえに赦しを請うとき――彼によってまったき謙虚さと神への大きな恐れとともに言われた諸々の事柄を絶えず思い起こす。彼は、(自分の湧き起こった)それらの事柄を提示するとき、次のことをしばしば付け加え、告白するのを常としている:すなわち彼は、それらの事柄をいわば定義された判断として表明するつもりもなく、確定した教義として結論を下すつもりもない。むしろ彼は、力を尽くして(聖なる)諸々の文書の意味を探求し吟味している。しかし彼は、完全に余すところなく理解しいるとは告白しておらず、むしろ非常に多くの事柄について語るとき推測を述べていて、万事において、完全無欠な事柄に到達したと確信していないと。我々はしばしば次のことを見出す:彼は、多くの事柄について迷っていることを告白している。彼はそれらの事柄において、問題になる諸々の事柄を吟味しているが、それらの事柄の諸々の解決を与えておらず、むしろ彼は、まったき謙虚さと真理とにおいて、それらの事柄が自分にとって明らかでないことを表明するのを恥としない。

 我々はまた、彼によってしばしば次のこと――それは今日、彼のあらゆる誹謗者たちの中でもっとも無能な者たちでさえ口にしようとしないことである――が言い添えられるのを聞いた:すなわち、彼が検討している諸々の箇所についてもしも誰かがより見事に語ったり説明したなら、むしろ、自分よりも正しく語るその人に聞き従うべきであると[1]

 さらに我々は、彼が時に同じ章に様々な解説をしたのを承知している。そして彼は、彼自身に思い浮かぶ諸々の事柄を提示するとき、聖なる諸々の書について自分が語っているのを自覚する者として全き敬意を込めて、(彼の作品を)読む人たちに、彼が語る心の事柄について確認するように、また、思慮深い読者としてより正しいと判断した者を獲得するように求めている。それというのは、聖なる諸々の文書の内に多くの事柄が密かに隠されていると信じられている以上[2]、彼が考察ないしは検討したことのすべてが、もっともらしいこと、ないしは確定的なこととと見なされるべきでないことは、彼自身も知らないわけではないからである。



[1] たとえば、『フィロカリア』27,8(拙訳)を参照せよ。

[2] Cf.SI.16,21.

 

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