33 しかし、異端的な人間が何であるかを、我々の力の限りで、我々が理解できる事柄に従って、我々は述べよう。自分はキリストを信じていると告白しながら、律法と預言者たちの神と諸々の福音の神は異なると言い、我らの主イエス・キリストの父は、律法と預言者たちによって宣べられた方でなく、万人に知られておらず、万人に聞かれてもいない――私には何者か分からない――別の方であると言うすべての人、そのような類の人間たちを我々は異端的であると表示する;それらの人たちがどれほど多種多様な架空の諸々の作り話をでっち上げようとも――たとえば、マルキオンとヴァレンティノスとバシリデスとセツ派と自称する人たちの教説のように[1]。アペレスにしても、彼は律法や諸々の預言が神に属することを決してい否定しているわけではないが、彼も異端的であると表示される。なぜなら彼は、世界を創造した神が、他の生まれざる善良な神の栄光のために世界を造ったと公言し、さらに、その生まれざる神が――世界を造った神によって、自分の(造った)世界の矯正のために子を派遣するように頼まれたので――代の終わりにイエス・キリストを世界の矯正のために遣わしたと公言するからである。

もしも、父なる神について、敬神の規則が求めることとは別様に理解する人だけが異端的であると見なされるべきであれば、上述されたことで十分だろう。しかし、同じことは、我らの主イエス・キリストについて次の人たちに従って何らかの誤った見解を持っている人についても、考えられねばならない。その人たちとは、イエスはヨセフとマリアから生まれたと主張する人たちであり、あるいは、エビオン派とヴァレンティノス派の人たちであり、あるいは、イエスが「最初に生まれた方」であり、「一切の被造物」の神であり[2]、み言葉であり[3]、知恵[4]――それは「何かが造られる前の神の諸々の道の始め[5]」であり、「代々に先立って据えられ[6]」「すべての丘に先立って生まれた[7]」知恵である――であることを否定し、彼が単なる人間であると主張する人たちであり、あるいは、彼が神であることを認めるが、人間を取ったこと、すなわち魂と地上的な身体を取ったことを認めず、主イエスのためにいっそう大きな栄光を確保するために、彼によって為されたすべての事柄は、真実に為されたものでなく、見かけの上で為されたものであることを証明しようとする人たちであり、あるいは、彼が乙女から生まれたこと[8]を認めないが、三十歳の男としてユダヤの中に現れたこと[9]を認める人たちである。他方、他の人たちは、彼が乙女から生まれたことを信じているが、乙女自身は身ごもったと思っているが、実際には身ごもっていないと言い張る。彼らは、推定的な誕生の神秘は乙女にも分からなかったと主張する。どうして彼らが、教会から遠く隔たったところに置かれないだろうか。なぜなら彼らは、支配欲の悪徳によって病気になり、自分の名の許に弟子たちを変節させるために数々の教説を打ち立てたからである。

しかし、主イエスが人間として予知され予定されていたと主張するが、彼は肉的な到来以前は実体的にかつ厳密な意味で実在しなかったのであり、人間として生まれても、父の神性だけをみずからの内に持っていたと主張する人たちについても、彼らを危険なしに教会の数の中に結びつけることができない。たとえば、宗教心によってと言うよりも迷信によって、二人の神を主張したり、逆に救い主の神性を否定したりすると思われないようにするために、父と子に一つの同じ実体が属すると主張する人たち、すなわち、諸々の場合の違いに応じて二つの名前を受け取る一つの個別的自存者しか実在しない――すなわち二つの名前の内に一つの位格が実在すると断言する人たち――彼らはラテン語でpatripassiani[10]と呼ばれる――がそうである。

さらに、預言者たちの中にいた聖霊と、我らの主イエス・キリストの使徒たちの中にいた聖霊はそれぞれ異なると主張する人たちも、可能な限り神の本性を切断し、律法と諸々の福音との一人の神を切り裂く人たちと同じ敬神の過失を犯している。

さらに、すべての人間的な魂が一つの同じ実体を持っているわけでなく、諸々の魂の諸々の本性は多様であると主張する人たちも、いと高き方の内に不公正を語り[11]、その方の不正義と不公平を非難する諸々の異端の中に数え入れられなければならない。

また、自由意思の権能を諸々の魂から取り去ろうと努める人たちも、有害な教説によって人間生活一般と節制の徳にいわば汚点をもたらしていると判断されなければならない。彼らは、何らかの善を行うことも言うことも考えることも人間の意図に属すと見なされるべきでないとしている。そうであれば、人間の精神は、神的な裁きの軽蔑と無視のために形成されることになるだろう。

それに対して教会的な秩序の中には[12]、罪人たちの諸々の責め苦に関する信仰と、善い振る舞いと生活の諸々の報いを主の国において彼の判断によって受けた人たちに関する信仰もあるべきである。

したがって、我々が上に提示した諸々の事柄の何かを変更したり覆そうと努める人がいるなら、その人は異端的であり、使徒の判断に従って「邪悪な人として罪を犯しており、自分自身によって断罪されている[13]」のであり、彼の掟に従う我々によっても同様に見なされねばならない。

さらに、教会人を特徴付けるものは、我々が上に提示したすべての事柄とともに、死者たちの復活に関する信仰である。その信仰について、聖なる使徒パウロも次のように言明している:もしも人が死者たちの復活を否定するなら、その人がキリストの復活を否定するのは必然であると[14]

また、教会的な秩序の中で、悪魔とそのすべての軍勢とに関する説明も含まれなければならない:すなわち彼らは、すべての人間たち、特に主なるキリスト・イエスを信じる人たちに対する諸々の戦いと諸々の争いを行っており、諸々の戦いと諸々の争いによって罪を犯す必然性を課す力がなくても、一切の防備によって自分たちの心を守っていない人たちを説得し欺いて破滅に至らしめることができると。

教会的な諸々の戒律の中には、次のことも含まれなければならない:すなわち、人間たちの誰かが神によって滅びに渡されたことはなく、滅びる人たちのおのおのは、各自の怠慢と罪によって滅びるのであり、自由意思を持つ者として善いことがらを選ぶことができたとともに、そうしなければならなかった。悪魔それ自身に関しても、そのことが考えられるべきである。悪魔は、全能の主の御前で反抗し、汚れない状態にあった自分の地位を捨てたと記述されている[15]。実に彼は、もしもの望んだなら、自分が始めからいたその地位の中に終わりまで踏み留まることができただろう[16]

 私が思うに、異端者が誰でありどのようなものか、そして彼らの諸々の教説と諸々の誤った見解が何でありどのような諸々の事柄の内に考えられているか、また、教会的な戒律の純粋さは何であるかが、我々によって可能な限り示されたと。



[1] 委細省略。各自で調べよ。

[2] Cf.Col.1,15.

[3] Cf.Jn.1,1.

[4] Cf.1Co.1,24.

[5] Pr.8,22.

[6] Pr.8,23.

[7] Pr.8,25.

[8] Cf.Mt.1,23.

[9] Cf.Lc.3,23.

[10] 強いて和訳すれば、「御父受苦主義者たち」ということになろう。

[11] Cf.Ps.73,8.

[12] 訳者(朱門)は直訳している。

[13] Tt.3,11.

[14] Cf.Co.15,13.

[15] Passim.

[16] Cf.Mt.10,22; 24,13.

 

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