40 したがって、神について何らかの身体的な事柄が理解されることを提案する一切の巻が、我々のできる限りで論駁されたのであるから、我々は、真理に従って、神が把握し難く測り難い方であると言う。実際、我々が神について考えたり理解したりできることが何であれ、彼は、我々が考えることによりも遙かに多くの仕方で優っていると信じられねばならない。たとえば、ある人が光の輝きや極めて小さなランプの光を見るのがやっとなのを我々が見るなら、そして、我々が上に述べた光に勝るものを自分の諸々の目の鋭さで捉えることができないその人に、もしも我々が、太陽の明るさと輝きを教えようと望むなら、我々はその人に次のように言うべきではないだろうか:「あなたが見ているこの一切の光よりも、太陽の輝きは曰く言い難く測りがたい仕方で優っており傑出している」と。それと同様に、我々の精神は、肉と血の牢獄に閉じ込められており、そのような物質への参与によっていっそう鈍く鈍感にされている。それゆえ、それが物体的な本性と比べて遙かに傑出したものだと考えられても、それが諸々の非物体的な事柄に進もうとし、それらの直観を探ろうとすると、(我々の精神は)何らかの輝きやランプに相当するものを獲得するのがやっとである。

ところで、すべての諸々の可知的な事柄、すなわち、諸々の非物体的な事柄の中で、神と同じほどすべての事柄に優って傑出し、曰く言い難く測り難い仕方で傑出しているものが何かあるだろうか。実に神の本性は、人間的な精神の鋭さによって対象にされたり見られたりすることは、精神がどれほど純粋で済んでものであっても、不可能である。

しかしながら、事柄のいっそう明晰な明示のために、我々が他のたとえを使っても馬鹿げたことには思われなだろう:ときとして我々の諸々の目は、光の本性それ自体を、すなわち、太陽の実体を観ることはできない。しかし、諸々の窓や諸々の光の何らかの諸々の受容器を通して注がれるその輝きや諸々の光線を観ることによって、我々は、物体的な光の火口そのものと源がどれほどのものであるかを把握することができる。同様に、摂理の神的な諸々の業とこの宇宙の精巧さは、神の本性のいわば諸々の光線である−−神の実体と本性に比較するなら。したがって、我々の精神は、みずから(の力)で神ご自身をあるがままに観ることができないのであるから、諸々の業の美しさと諸々の被造物の麗しさとによって、宇宙の親を理解するのである[1]

 それゆえ、神は、何らかの物体であるとか、物体の中にいるとか考えられてはならない。むしろ神は、可知的で単純な本性であり、何らかの過不足をみずからの内に持っていると信じられないようにするために、みずからの内に何らかの付加を許容しなし。彼は、あらゆる点で独一であり、いわば単一であり、精神であり源泉である――そこから、可知的な本性の全体あるいは全精神が由来するとしなければらなない。ところで、精神は、動くためにあるいは働くために、物体的な場所も、可感的な広さも、身体的な姿勢も、色も必要とせず、また、身体や物質に固有な諸々の物もまったく必要としない。それゆえ、その単純にして全き精神は、動くために、あるいは、働くために、何らかの遅延や遅滞を持つことはあり得ない。それは、そのような付加によって、神的な本性の単純性が幾らかでも制限されたり妨げられると考えられないようにするためであり、万物の元であるものが、合成されたものであり多様なものであると見なされないようにするためであり、一ではなく多であるとされないようにするためである。それは、物体的な混合全体と無縁な元として、いわば神性の唯一の部類に存立べきものである[2]



[1] オリゲネスにとって、宇宙の美しさは当然のことであった。

[2] 以上は、オリゲネスの『諸原理について』第1巻1〜6からの抜粋である。

 

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