42 以上の事柄が順を追って我々のできる限りで簡潔に披露されたのに続いて、最初に提示された事柄に従って、我々の主イエス・キリストの父は、モーセに律法の諸々の託宣を与えたり、預言者たちを遣わした神――アブラハムとイサクとヤコブという父祖たちの神――と異なる神であると考える人たちを論駁しなければならない。実際、我々は、信仰のその理拠の内で揺るぎなくされねばならない。そこで、諸々の福音の中でしばしば言われ、我らの救い主なる主の諸々の行為の一つひとつに付加された言葉、すなわち、「預言者によって言われたあれこれの事柄は成就されなければならない[1]」という言葉が考察されねばならない。なぜなら諸々の預言者は、世界を造った神に由来するのは明らかだからである。このことから、預言者たちを遣わした方が、キリストについて何が為されるかをみずから予言したことが、帰結として導き出される。そして、それらの事柄を、彼とは異なる者が予言したのでなく、まさに彼の父が予言したことは疑いない。そればかりか次のこと、すなわち、しばしば諸々の例が旧約から救い主や彼の使徒たちによって引用されていることも、救い主と彼の弟子たちによって、諸々の旧約に権威が帰されていることをまさに示している。さらに救い主が、ご自分の弟子たちを善意へと招いて次のように言っていること:すなわち、「あなた方の天的な父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい[2]。天的な父は、善い人たちと悪い人たちにの上にご自分の太陽が昇り、正しい人たちと不正な人たちの上に雨が降るように命じた[3]」と言っていることも、その貧相な理解しか持たない人にも対しても、極めて明晰な理解を暗示している:すなわち、彼は、太陽の作り手にして諸々の雨の提供者とは別の神を、自分の弟子たちに模倣の対象として提示したのではないことである[4]



[1] Cf.eg.Mt.1,22; 2,15 etc.

[2] Mt.5,48.

[3] Mt.5,45.

[4] 本節は、『諸原理について』第24,127からの引用である。

 

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