45 さて、我々の諸々の微力を微力に応じて、我々の考えに基づく観想からでなく、彼の諸々の業の観想から、神的な本性が考察された。また、彼の諸々の可視的な被造物の注視され、信仰によって(彼の)諸々の不可視的な被造物を観想された――なぜなら人間的な脆さは、諸々の目によっても理性によっても、すべてのものを把握することができないからである。それというのも我々は、すべての理性的な者たちよりも弱く脆い動物であり、天の中や諸々の天の上にいる者たちの方が(我々よりも)卓越しているからである[1]――。それゆえ、それらすべての被造物と神との媒介、使徒パウロが「一切の被造物の初子[2]」と述べた「仲介者[3]」を、我々が探求することが残っている。我々は、彼の威厳について聖なる諸々の文書の中で述べられている諸々の事柄を見た。そして、彼が「不可視的な神の像[4]」と「一切の被造物の初子」と言われていること、「彼の内にすべてのもの――諸々の天の中にあるものも、地の中にあるものも、可視的なものも不可視的なものも、諸々の王座も諸々の支配も諸々の主権も諸々の権能も――が造られた」こと、すべてのものが彼を通して彼の内に造られたこと、そして彼がすべての者たちに先立っており、すべてのものが彼によって確立している――彼は、すべてのものの頭であり[5]、「ところでキリストの頭は神です[6]」と書かれているように、彼だけが父なる神を頭に持っている――ことを、我々は見た。さらに我々は、次のように書かれているのを閲覧した:すなわち、「子でなければ、誰も父を知らない。父でなければ、誰が子を知っているだろうか[7]」。実際、知恵を生んだ方でなければ、誰が知恵が何であるかを知ることができようか。また、真理の父でなければ、誰が真理が何であるかを明澄に知っているのか。唯一の神――彼の許にみ言葉があった[8]――でなけば、いったい誰が、彼のみ言葉すなわち神からの神ご自身の本性全体を確実に探求することができたのか。それゆえ、このみ言葉あるいは理性と呼ばれるべきもの、この知恵、この真理を知っているのは父の他には誰もいないということを、我々は確実なことと考えねばならない。 (聖文書に)書かれているように、彼について、すなわち、神の子の栄光と威厳とに関して「書かれた諸々の書物を、世界それ自体が収めきれないと、私は思う[9]」。確かに、救い主の栄光に関わる諸々の事柄を諸々の文字に託すことは不可能である[10]



[1] この挿入句は、もちろん、万物の把握には、人間の理性では足りず、信仰が必要であると言うことの説明である。これは、「恩恵は自然を破壊せず、むしろそれを完成する」というあの人の考えを想起させる(盗用厳禁)。

[2] Col.1,15.

[3] Cf.1Tm.2,5.

[4] Col.1,15.

[5] Cf.1Co.11,3.

[6] 1Co.11,3.

[7] Mt.11,27.

[8] Cf.Jn.1,1.

[9] Jn.21,25.

[10] 本節は、『諸原理について』第26,136からの抜粋である。

 

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