48 実際、神が以前は父でなかったのに、後に父になり始めたというのは不可能である――あたかも死すべき人間たちが、何らかの諸々の原因によって妨げられ、存在するやいなや父になることがあり得ないのが常のように。実際、もしも神が常に完全であり、彼が父であることの力が彼に欠けておらず、彼がそのような子の父であることが善いことであるとすれば、どうして彼はその善きことを遠ざけるのか。あるいは、こう言えるなら、どうして彼は、その善きことにおいて自分を欺き、父になることができるのに、すぐに父にならないのか。しかし同じことは、聖霊についても言われねばならない[1]



[1] 本節は、『創世記注解』からの抜粋である。カエサレアのエウセビオスもある著作で、これを再現している(委細省略)

 

次へ